第25話 最終回

県内市町村アンケートと

今後の在り方

七戸神明宮にある旧奉安殿の「郷友館」

七戸神明宮にある旧奉安殿の「郷友館」

権現崎の丘で朽ちていた旧海軍の施設。奥は戦後に設置された小泊岬北灯台

権現崎の丘で朽ちていた旧海軍の施設。奥は戦後に設置された小泊岬北灯台

序 章

国防の要衝 戦禍爪痕数多く

 2025年の戦後80年の企画として、前年の24年8月から元県史編さん調査研究委員の小泉敦さん(66)=五戸町=と県内を中心に本県に関わる戦争遺構を訪ね歩いてきた。現在、国防上の最重要エリアに位置づけられる本県は、三方を海に囲まれ、戦時中も多くの軍事的な施設が存在した。長い年月を経て、多くの遺構は取り壊され、現在まで残っていても原形をとどめていないもの、戦時中の秘匿事項で詳細が明らかになっていないものもあったが、遺構と経験者の証言から戦争が本県に残した爪痕と、住民や疎開してきた人たちの苦難が実感できた。連載開始から丸2年、全てを網羅できたわけではないが、この節目に旅を終える。

八戸島守地区の山中にあるトーチカの内部

八戸島守地区の山中にあるトーチカの内部

第1章

9割に当たる36市町村

「何らかの遺構がある」

 東奥日報社は6~7月、県内自治体の文化財担当者に対し、日清戦争以降の戦争遺構に関するアンケートを行い、全市町村から回答を得た。9割に当たる36市町村に何らかの遺構があり、このうち34市町村には戦死者をまつる忠魂碑や忠霊塔、慰霊碑(塔)などがあることが分かった。
 旧陸軍や旧海軍の要塞(ようさい)や建物、弾薬庫、官舎、演習場、飛行場、掩体壕(えんたいごう)、高角砲、銃座、観測所、弾痕跡、トーチカ、監視哨、聴音壕などの施設・設備は10市町村に存在。旧陸軍第8師団司令部が存在した弘前市を除き、いずれも海に面した自治体だった。
 防空壕などが「残っている」と答えたのは鯵ケ沢町などの7町村。戦前から戦時中にかけ、学校敷地内に御真影(天皇、皇后両陛下の写真)と教育勅語を保管していた「奉安殿」が「ある」と答えた自治体も7市町あった。
 境界石柱や標柱石、門柱などがある自治体と青い目の人形が現存する自治体はそれぞれ6市町だった。

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

七戸町の旧上北鉱山選鉱場跡

 文化財に指定されている戦争遺構がある自治体は青森市、弘前市、むつ市、つがる市、平川市、鶴田町の6市町にとどまった。


 戦争遺構の学校教育、生涯教育への活用についての質問では、青森市は市ホームページ、メールマガジンに掲載していると回答。弘前市では、2025年に旧弘前偕行社を会場に公開講座を開催。小学生が学区内の戦争遺構を訪れ、文化財マップ・壁新聞を作成したこともあるという。
 八戸市では、市南郷歴史民俗資料館が常設展示でトーチカを紹介。隔年3月3日に島守小で青い目の人形を披露しながら、児童に解説している。
 三沢市では、市内の小学校が遺構を道徳教育に活用。つがる市では、旧制木造中学校講堂を生涯学習の拠点として貸し出しているほか、郷土学習の一環として児童生徒の見学を受け入れている。青い目の人形は同市や平川市で教材として活用・展示されている。
 鯵ケ沢町では、児童や小中学生の教職員とともに遺構を巡り説明する学習・研修会を行っているほか、公開講座などを開催。中泊町では、戦争の語り部によるお話会を開いているほか、校外学習や町歩き講座で忠魂碑などを解説。野辺地町でも町歩き講座で忠霊塔を見学場所に含めている。階上町でも町民講座内の歴史ウオークなどで活用。三戸町はデータ化し、写真資料として提供しており、小学6年生の授業で扱っている。


 戦争を学ぶ施設としては、青森市に中央市民センターの青森空襲資料常設展示室、弘前市には弘前忠霊塔、旧弘前偕行社があり、市立博物館の常設展示でも第8師団の内容を扱うことも。八戸市では市南郷歴史民俗資料館で常設展示。このほか、十和田市、むつ市、平川市、中泊町、東北町、六ケ所村、東通村、階上町などにも資料が残っている。

第2章

弘前に新たな奉安殿

弘前市教委から新情報

 戦争遺構に関する県内の各市町村教育委員会へのアンケートで、弘前市教委から奉安殿に関する新たな情報が寄せられた。
 本紙連載で紹介していない奉安殿は、同市悪戸の常盤神社本殿(青柳学校奉安殿)、同市小沢の廣野神社奥院(小沢小学校奉安殿)、同市楢木の稲荷神社本殿(自得小学校奉安殿)。8月上旬、小泉敦さんと市内の三つの奉安殿を回った。一部は屋根などを改修していたが、いずれも現存していた。
 取材の過程で、明治、大正期に政治家などをした地域の地主が個人で建てたという奉安殿も同市内で確認できた。2010年発行の清水啓介著『現存奉安殿調査』によると、全国の奉安殿、奉安庫、奉掲所のほとんどは旧国民学校内にあり、個人が造ったものは珍しいという。
 一方、佐井村教委からは日露戦争の日本海海戦の際、同村長後地区の海岸にロシア兵の遺体が流れ着き、その場所を「露助沢」と呼んでいるという情報も寄せられた。遺体は浜に埋葬されたが、その後、弘前市の弘前陸軍墓地に改葬された。弘前忠霊塔脇の同墓地を訪ねたところ、現在も墓が残っていた。

稲荷神社にある奉安殿

稲荷神社にある奉安殿

廣野神社にある奉安殿

廣野神社にある奉安殿

常盤神社にある奉安殿

常盤神社にある奉安殿

個人で建てたとみられる奉安殿

個人で建てたとみられる奉安殿

青森市の幸畑陸軍墓地内にある「陸軍用地」と書かれた境界石

青森市の幸畑陸軍墓地内にある「陸軍用地」と書かれた境界石

弘前陸軍墓地内にあるロシア兵の墓

弘前陸軍墓地内にあるロシア兵の墓

第3章

風間浦「震洋」格納穴は「魚雷射堡」だった

大間出身 山田さんが情報提供

 今回の連載に対し、読者から複数の情報提供をいただいた。その中で、大間町出身で埼玉県越谷市在住の演劇ジャーナリスト・山田勝仁さん(71)からは、地元で有人の特攻艇「震洋(しんよう)」の格納壕(ごう)跡として知られ、連載でも紹介した風間浦村甲(かぶと)地区の穴は、陸上から無人の魚雷を発射して敵艦艇を攻撃するための発射基地「魚雷射堡(しゃほ)」だった─という情報が寄せられた。

山田勝仁さん

山田勝仁さん

「戦史叢書 北東方面陸軍作戦2~千島・樺太・北海道の防衛」に掲載されている地図。下北半島の桑畑と大畑の間に魚雷射堡の印がある(赤い矢印部分)

「戦史叢書 北東方面陸軍作戦2~千島・樺太・北海道の防衛」に掲載されている地図。下北半島の桑畑と大畑の間に魚雷射堡の印がある(赤い矢印部分)


 甲地区の海岸に掘られた穴は「下北の地域文化研究所」代表の斎藤作治氏(故人)が調査し、同研究所の冊子で発表して以降、地元では震洋の格納壕として広く認知されていた。
 山田さんは2015年、斎藤氏と現地に赴いて調査。その様子をインターネット上で公開したところ、県外の軍事に詳しい人から「魚雷射堡ではないか」との指摘を受けた。
 根拠は1971年出版の「戦史叢書(そうしょ) 北東方面陸軍作戦2~千島・樺太・北海道の防衛」(防衛庁防衛研究所戦史室著、朝雲新聞社発行)。同書に記載の地図では、甲地区と書かれてはいないものの、位置関係から同地区に魚雷射堡があったと推察されるという。山田さんは「下北半島は(軍部に)重視されていた。工事も秘密裏に行われ、地元の人もほとんど何をしているか分からなかった」と話す。
 山田さんは斎藤さんとメールでやり取りし、斎藤さんも魚雷射堡だと認識を改め、新たな論文発表による修正に意欲を見せたが、翌年春に急死したため、今も地元住民は穴は震洋の格納壕という認識を持っているという。

第4章

学校教育へのアプローチ

継承のために大切

弘前大学・髙瀨副学長

 旧陸軍山田野演習場(鯵ケ沢町)のあった地域の歴史をまとめた弘前大学の髙瀬雅弘副学長(52)に戦争遺構に関する市町村アンケートを分析してもらい、今後の遺構の在り方を提言してもらった。
 ―アンケート結果から見えてきたことは。
 「戦争経験の違いで遺構の残り方にも地域ごとに差異がある。軍都と呼ばれた弘前市には軍人、軍隊の視点の遺構が多い。青森市は青森空襲で市民生活が破壊された記憶が濃密にあり、鎮魂碑や慰霊碑、空襲で焼け残った建物が残る。八戸市は大規模空襲が予告されたが、終戦が先となり、市街地の壊滅的被害は免れた。このように県内都市だけを見ても違った戦争の受け止め方がある。そこにそれぞれの地域ごとの経験が重なる」
 ―戦争遺構の意義は。
 「戦争の記憶を人に頼って探ることが困難になる中で、戦争の被害を直接伝えなくても、身近に戦争があったことを知らせる存在。失われれば、記憶のよすががなくなってしまう」
 「残ったものの意味を継承することが新たな課題。石碑が残っていてもそれが何を記録したのかが継承されなければ、ただのものになる。記憶はどうしても風化する。だからこそものが持つ意味の伝承が鋭く問われることをアンケート、連載を通じて感じた」
 ―記憶の継承には何が必要か。
 「昔は人から直接話を聞けたが、多くの戦争経験者は鬼籍に入った。高齢化と過疎化が継承を困難にしている。だからこそ学校教育へのアプローチは大切。鯵ケ沢町のふるさと学習や教員研修は意義のある実践。他の地域にも広がってほしい。一方、学校の先生に伝える人材育成も課題で、郷土史家や教育委員会の学芸員、研究者の役割が重要になる」
 「語られずに忘れられることが心配。まずは市民に知ってもらい、関心を持ってもらうことが理想。山田野の兵舎も多くの人に関心を持ち続けてもらえた。この連載や書籍の刊行など、記録して形にすることが一番有効な取り組み。戦争遺構を巡るツアーも関心を持ってもらう一つの手段。北海道函館市では函館要塞(ようさい)の遺構を巡るツアーがある」
 ―遺構を身近に感じてもらうには。
 「旧弘前偕行社や旧陸軍第八師団長官舎(現スターバックス弘前公園前店)といった活用されて目立つ遺構もあるが、そうでないものもある。アンケートによると、85%の自治体には忠魂碑や忠霊塔がある。それらの存在を伝えることで、自分の地域にも戦没者がいたことを知ってもらえる」
 ―自治体はどう取り組めばよいのか。
 「個々の自治体でできることは限られており、県としての取り組みに期待したい。各自治体には、例えば今回のアンケートや市町村史編さんといった機会を通じて調査や記録・保存の機運を高めてもらえたら。山田野のように、地域の内外の人々のネットワークをつくれると大きな力になる」
 「遺構の多い弘前市でさえ、ここ10年間で相当数が失われた。建造物は耐震面から解体せざるを得ない事情もある。本物に触れることと同時に安全の確保も大事なこと。代替的な手段は記録保存。今は写真を立体的にする技術もあり、まずは記録をしてほしい。また、亡くなった人の遺品が処分される際には写真や手記などの資料の散逸を防ぐことも意識的に行われなければならない」
 ―戦争遺構に文化財としての価値を見いだすのは難しいのか。
 「文化財指定を受ける場合、基本的に多少の改変があってもオリジナルな姿を保っているのが前提。戦争遺構は再利用されて、改変が著しく文化財になりづらい。戦後を生きた人々は資材がない中で使えるものは何でも使った。山田野の兵舎に関しても改変されてきたことは戦後を生きてきた証しでもある。戦争遺構は単に戦争の記憶をとどめるだけでなく、戦後81年間がどのような時代であったかを知るための材料でもある。そうした観点から戦争遺構を評価することも必要だ」
 ―私有地が多いのが遺構保存のネックでは。
 「公有化はいい解決策かもしれないが、むしろ、民間所有のまま所有者と良好な関係を築き、遺構の重要性を理解してもらい、みんなで大切に見守ることが現実的。所有者が維持に困っていれば、柔軟に対応できる公的な支援システムや制度があれば、ある程度持続可能性も保証される」

第5章

県教委はどう位置付け?

戦争遺構は文化財と同じ扱い 秋田県の動向注視

 戦争遺構について、県教育委員会はどう位置付けているのか─。県教委文化財保護課の山舘久美子課長に尋ねた。
 山舘課長は「歴史上価値が高いという切り口で保護することはあるが、戦争遺構だからという理由で保護対象とはしていない。戦争遺構は全ての文化財と同じ扱い」と説明。遺構の保存、継承、活用については、所有者の意向が重要─と強調した。
 県教委は戦争遺構に限定した調査をしたことはないが、1998、99年度の2カ年で江戸時代末期から終戦までの近年遺産を調査したことがあるという。
 秋田県教委は本年度、戦争遺跡調査委員会を立ち上げ、来年度までの2カ年で空襲関連や奉安殿、演習場跡など約20の遺構を訪ね、関係者への聞き取りも行っている。山舘課長は「秋田県教委は戦争遺構をどう価値付けして取り組むのか、動向を情報収集していきたい」と語った。

終 章

想像以上の遺構 驚きの連続

あおもり戦争遺構の旅同行の小泉敦さん

 8月は戦死者を悼み、戦争の痛みを思い起こす季節である。その手掛かりを求めて自治体史や郷土史、広報紙を読み進め、2年前から県内の戦争遺構の調査に取り組んできた。地域の事情に詳しい方を訪ね、一緒に歩いてみると、想像以上に多くの遺構に出合うことができた。中には文献に記されていないものもあり、驚かされる場面も少なくなかった。
 また、八十余年前の子どもの頃に戦時生活を経験した方々との出会いも貴重だった。雷管を拾って負傷し、兄を特攻兵で亡くした方。旧制中学校での軍事教練や空襲、防空壕(ごう)の記憶を遺言のように語り、間もなく亡くなった方。99歳を迎えた今なお、戦争の不条理を静かに語り続ける方。そうした証言の一つひとつが、重く心に響いた。
 三方を海に囲まれ「北の要塞(ようさい)」と呼ばれる青森は、近隣地域とのつながりも深い。調査を進める中で、戦争遺構の広がりが県境を越えて連続していることを改めて実感した。北海道の十勝・日高・胆振・渡島地方の海岸線に点在するトーチカ群と、津軽海峡や太平洋沿岸に残る防備施設は、一体の防御体系として捉えることができる。

 近年、全国的に戦争遺構(遺跡)が注目されている。戦争を体験した世代が減少する中、地域に残された「モノ」が歴史を伝える重要な手掛かりとして、改めて価値を持つようになったためである。一方で、次の世代へ戦争の記憶をどう継承するのかという、平和教育の在り方も模索されている。
 戦後80年の昨年、県内全市町村にある戦死者を悼む「英霊顕彰碑施設」一覧が作成された。岩手県では36カ所の遺構を紹介する「戦争遺跡マップ」(写真と解説)が完成し、秋田県では県教育委員会が戦争遺跡調査委員会を立ち上げ、来年度までの2年間で約900件に及ぶ遺跡の現状把握を進めている。記録や記憶の継承が難しくなる中、現地調査によって資料を整理・保護する取り組みが進んでいる。

 現在は戦争をリアルに感じることが難しい一方、情報が容易に手に入る時代でもある。だからこそ、戦争が自分たちの住む地域にも存在し、多くの人に厳しい経験を強いた歴史があったことを思い起こすためにも、遺構は戦争理解を深める貴重な手掛かりとなる。県内でも戦争遺構の価値や保存の意義が再評価され、保存・活用に向けた議論が進んでいる。次世代への継承という観点からも、文化遺産として保存に着手することを望みたい。
 秋田県教委は強制労働をさせられた中国人が過酷な労働に耐えかねて蜂起し、鎮圧の過程で400人以上が死亡した「花岡事件」について、聞き取り調査や慰霊碑の視察を行っている。県内でも各地で朝鮮人労働の過酷な実態が語り継がれている。今後は浮島丸事件を含め、加害の側からの視点を取り入れたアプローチも必要である。
 本当に恐ろしいことは、戦争が忘れられてしまうことである。そのために、歴史の「本物に触れる」体験は欠かせない。実際に地域を歩き、聞き、見て、確かめることで得られる気づきは多い。「戦争が起きる時、色がなくなる」と言われるが、今回の連載ではカラー写真を多用し、動画やインタビューなどデジタルコンテンツも取り入れて、読みやすさに工夫が凝らされている。
 次の世代に戦争の教訓を伝える手段として、また学校で平和学習を進める際の一助としても、今回の記録が役立つことを願う。

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