第24話
軍馬補充部三本木支部と
奥羽種馬牧場
序 章
「生きた兵器」育て戦地へ
明治維新以降、海外から騎兵の概念が日本にもたらされ、旧陸軍は軍馬の調教や育成に力を入れた。県内でも馬の生産が盛んだった上北地域を中心に、県南地方には軍馬補充部三本木支部や奥羽種馬牧場が設けられ、戦場に軍馬を送り出した。「活兵器」「生きた兵器」と称された軍馬は終戦まで兵士と共に戦った。戦後、軍馬補充部の用地は開放され、開発されたり、開拓集落となったりしたが、今も遺構が随所に残る。6月から7月にかけ、元県史編さん調査研究委員の小泉敦さん(66)=五戸町=と現地を訪ねた。
軍馬補充部 旧陸軍省の外局で、1874年に省内に設置された軍馬局、軍馬育成所、軍馬補充署などを経て、96年に設置された。農家などの若い馬を買い、飼育・訓練した後に軍隊に送った。1945年11月の陸軍省廃止に伴い、解散した。
第1章
三本木支部
国内最大級2万㌶ 超 3千頭管理
軍馬補充部三本木支部は七戸を含む各派出部、出張所などを合わせた総面積が2万ヘクタールを超す国内最大規模の支部で、3千頭近くを管理していた。
三本木村(後に三本木町、現十和田市)に支部本部と本厩(ほんきゅう)、切田(吾郷)、赤沼(八郷)、元村(七郷)の各分厩(ぶんきゅう)があった。
「三本木物語」(山崎政光さん著)によると、本厩は490ヘクタール、元村分厩と赤沼分厩はそれぞれ340ヘクタール、切田分厩は240ヘクタールの敷地があり、支部本部には244人、派出部には123人もの軍人、軍馬の管理者、農場の管理者が勤務していた。
七戸派出部(旧天間林村、現七戸町)、中山派出部(現岩手県一戸町)と合わせて3千頭近くを管理。農家から買い上げた若い馬を4年間にわたって育成し、年間数百頭のペースで軍に供給したとされる。
八郷会館脇に移設された蒼前神社(左奥)。手前には同じく移設された「陸軍用地」の文字入りの境界石=十和田市
八郷会館脇に移設された蒼前神社(左奥)。手前には同じく移設された「陸軍用地」の文字入りの境界石=十和田市
切田分厩があった場所で、現在も随所で見られるコンクリート製のくい=十和田市
切田分厩があった場所で、現在も随所で見られるコンクリート製のくい=十和田市
持集落の山林にある境界石=十和田市
持集落の山林にある境界石=十和田市
軍馬補充部があった時代に防風林としての役目を果たした林=十和田市
軍馬補充部があった時代に防風林としての役目を果たした林=十和田市
喜栄の森にある境界石
喜栄の森にある境界石
官庁街通りに残っている軍人勅諭下賜50年記念碑
官庁街通りに残っている軍人勅諭下賜50年記念碑
十和田市文化財保護協会事務局長の中野渡祐一さん(70)の案内で、市内の軍馬補充部の遺構を回った。最初に訪れたのは、深持集落の山林にある高さ50センチほどの「陸軍用地」と書かれた境界石。中野渡さんは「放牧場の境界を示す石で、地元の人たちは当時の区画を基にこの辺りを十号平(じゅうごてい)と呼んだ」と説明した。
境界石は他にも喜栄の森(通称・すずらん山)など多く現存する。
八郷会館近くの蒼前神社はかつて、本部構内にあったが、戦後に移設されたという。神社前にも移設された境界石があった。
切田分厩の敷地だった場所には、多くの遺構がある。現在も高さ140センチほどのコンクリート製のくいが随所に残り、中には連続して立っている場所もあった。コンクリートに三つの小さな穴を開け、ボルトなどで木と一緒に固定されていたくいもあり、中野渡さんは「分厩には運動場があった。くいは柵として使っていたのだろう」とみる。
住宅街の一角に古い木造平屋の建物があった。所有者によると、軍馬補充部時代の厩舎(きゅうしゃ)で、戦後に入植した所有者の父親も馬好きで馬小屋として利用したという。現在は車庫兼倉庫となっているが、馬具も残っていて、厩舎時代の面影、たたずまいが感じられた。かつては同様の建物が何棟も隣接して建っていたという。
元村分厩の敷地だった場所にはほとんど遺構はないが、唯一、天井が高い木造平屋の空き家がある。中野渡さんによると戦後、住宅として使われたが、軍馬補充部時代にどんな建物だったかは分かっていない。
支部本部があった場所は現在、官公庁や事業所が立ち並ぶ官庁街通りとなり、馬の彫像や記念碑などがあるが、当時からのものは桜やマツの古木と軍人勅諭下賜(かし)50年記念碑以外はほぼ残っていない。
1990年1月11日付の本紙で、軍馬補充部の獣医師として働いた同市の前川原正一郎さん=当時(77)=は「わが子のように育て、戦地に送り出した」という軍馬について、こう述べている。「満州事変以後、60万頭が全国から大陸の各部隊へ送られた。しかし、生きて戻った馬は一頭もいない。兵隊と行動をともにして山野で倒れたり、戦地で食用にされたり…。あるいは輸送の途中、船ごと海のもくずと消えた馬も、相当あっただろう」
第2章
七戸支部(七戸・道ノ上地区)
民家にひづめの洗い場
七戸町の北部・道ノ上地区には1906年に軍馬補充部七戸支部が開設された。天間林村史によると、敷地は12年に約1万2千ヘクタールだったとされる。26年に三本木支部の派出部となり、規模が縮小されたが、現在の六ケ所、横浜、野辺地、東北の4町村の牧草地を含め、7500ヘクタールはあった。
年間800~千頭ほどの馬を育成。70人ほどの機関職員のほか、種まきや収穫の時期には1日当たり延べ600~700人が雇われていたという。
同地区の国道4号近くの天間林土地改良区事務所付近に支部の事務所や厩舎があった。土改区事務所前には32年に建てられた高さ約90センチの軍人勅諭下賜50年記念碑がある。これは大きさこそ違うものの、碑には「誠」、台座には「忠節、禮禮儀、武勇、信義、質素」と彫られ、軍馬補充部三本木支部があった官庁街通りに残る記念碑と同じ造り。軍馬補充部があったことや当時の時代背景を示す遺構となっている。
土改区事務所に向かう道の両側には桜並木があるが、92年4月25日付の本紙によると、片側は軍馬補充部時代からの老木という。
近くに住む中澤糸子さん(87)宅の庭には、軍馬補充部時代に造られた縦約2.5メートル、横70センチほどのコンクリート製の馬のひづめの洗い場がある。中澤さんは「歴史ある貴重な遺構と聞き、保存してきた。これからも残していきたい」と語った。
第3章
戸来出張所(新郷)
標高316㍍ 馬の治療室
新郷村中心部から車で20分弱ほど山道を上り、長崎集落に向かった。標高約316メートル。夏でも涼しく感じられる。かつては小学校もあった戦後の開拓集落だが、空き家が目立ち、急激に高齢化、過疎化が進んでいる。
1896年、この場所に軍馬補充部三本木支部の戸来出張所が設けられた。新郷村史によると、敷地の広さは2556ヘクタール。約250頭が放牧されていた。中山派出部(岩手県一戸町)は戸来出張所の約3倍あったが、三本木に近かったため、戸来の放牧地の方が重要視されていたという。
集落内に出張所時代の建物が残っている。戦後、住宅として使われ、現在は空き家となっているが、所有者によると、出張所時代は馬の治療室だったという。隣接地に出張所の事務所や長屋があった。
集落在住の小笠原操さん(78)が集会所に案内してくれた。集会所はかつての出張所の事務所を移築・改築した建物。小笠原さんは「弘前城みたいに曳家(ひきや)で動かしたと聞いている」と話した。
移設・改修し、集会所となった軍馬補充部三本木支部戸来出張所の事務所=新郷村
移設・改修し、集会所となった軍馬補充部三本木支部戸来出張所の事務所=新郷村
第4章
奥羽種馬牧場(七戸・鶴児平地区)
「軍用馬」を生産・改良
七戸町の道の駅しちのへから山側に向かうと、鶴児平(つるのこたい)地区を中心に独立行政法人家畜改良センター奥羽牧場の原野が広がっている。現在は肉用牛の効率的な改良増殖などを行っているが、1896年に設立されてから終戦まで「国立奥羽種馬牧場」として軍用馬の生産・改良に取り組んでいた。
七戸町史によると、用地取得では条件面で地元の土地所有者の反対もあったという。
現地を訪ねると、種馬牧場当時の「記念舘」と書かれた古い木造の建物があった。道路沿いには当時からの背の高い防風林や、古い木造の厩舎(きゅうしゃ)も残っていた。
第5章
放牧地囲む800㍍土塁
中山派出部(岩手・一戸)
岩手県一戸町の奥中山地区を訪ね、町教育委員会世界遺産課副主幹の菅野紀子さん(46)の案内で、軍馬補充部三本木支部中山派出部の遺構を巡った。
現在の同町はレタスの産地で、牛乳も名産。乳牛は飼われているが、馬を飼育している農家はほとんどないという。
同派出部は1891年開設。放牧地は約9千ヘクタールで、一戸町史によると、1911年の段階で318頭が飼育されていた。軍馬補充部は季節によっては住民100人近くを雇用し、農家の貴重な現金収入となった。
土塁は馬が逃げないように築かれた江戸時代の野馬土手をそのまま利用。岩手町との境界付近の馬羽松(まはまつ)集落近くには、当時の放牧地を囲むように約800メートルにわたる土塁が残っている。
高い場所で約3メートルあり、所々に切れ目がある。防風のためか、マツが多く植えられていた。
菅野さんは「土塁は町内の他の場所にも広範囲に残っている」と説明。「最寄りの駅には当時、馬運搬専用のホームがあったと聞いている」と語った。同派出部からは最大で年1150頭が出荷された。
中山村史によると、同派出部には厩舎(きゅうしゃ)が7棟あり、他に馬糧庫5棟、本部事務所、装蹄(そうてい)場、来客官舎などがあり、軍馬役人の官舎も4~5棟あったという。
山手にある開拓記念公苑には、76年に本部事務所が復元され、現在は集会所として使われている。
馬が逃げないように設けられた高さ約3メートルの土塁(左側)=岩手県一戸町
馬が逃げないように設けられた高さ約3メートルの土塁(左側)=岩手県一戸町
軍馬の慰霊碑3基
弘前・長勝寺
馬の産地・上北地方には馬の守護神(蒼前様)をまつる蒼前神社が多く存在する。一方で、馬の慰霊碑は確認できなかった。
旧陸軍第8師団司令部のあった弘前市の西茂森にある長勝寺には軍馬の慰霊碑が3基ある。石碑を見ると、1基には、国防婦人会が1938年に青森県護国神社に建立したが、43年に移設した─と書かれている。
同寺は軍馬と直接の結びつきはないといい、同寺は寺北側にある忠霊塔とセットで同寺に置かれたのではないか─との見方を示す。数年前までは、お盆に必ず「軍馬の世話になった」と訪れてくる男性がいたが、今は訪れる人はいないという。
青森市の野木和公園には36年の軍馬祭の際、青森市、県乗馬会、東郡産馬畜産組合によって建立された「忠烈戦役軍馬之像」がある。
長勝寺の敷地内にある軍馬供養塔=弘前市
長勝寺の敷地内にある軍馬供養塔=弘前市
第6章
十和田市在住識者による座談会
6月下旬、いずれも十和田市在住で県文化財保護協会理事の伊藤一允(かずみち)さん(93)、市文化財保護協会会長の中野渡武信さん(89)、中野渡祐一さんに市郷土館に集まってもらい、軍馬補充部三本木支部について尋ねた。
─軍馬補充部があった頃の三本木や周辺の様子は。
武信さん「防風林や畑があって、非常に広かった。支部の本部だけでなく、赤沼も元村も分厩は土塁で囲まれていた。分厩には(敵の襲撃、侵入を防ぐために見張りを行う)歩哨(ほしょう)がいなかったので、子どもは自由に中に入ることができた。水を飲むために入った時も『来るな』とか『入るな』とかは言われなかった」
─本部はどうか。
武信さん「歩哨が立っていた。軍馬祭りの時は一般の人も入ることができた」
─古い地図にはどんなふうに表記されていたか。
祐一さん「現在の六ケ所村の1915年の地図には陸軍軍馬補充部の放牧場が倉内放牧場や表舘放牧場と書かれている」
武信さん「古い地図に旧何郷という表記があった。八郷(赤沼)、吾郷(切田)、七郷(元村)分厩という名前で呼んだ。軍馬補充部の区画は割り振られた区画は一号、二号という呼び名だった」
─軍馬補充部はなぜ三本木に来たのか。
伊藤さん「かつての南部藩では七戸で1等級の馬を育てていた。軍部は外国産の馬を交配させて軍馬にしたかったが、七戸のリーダーたちは外国種を入れる必要がないと考えていた。また、三本木は1869年の凶作で百姓が減り、農地の価格が安くなった。三本木周辺の農家は馬を飼うノウハウがあり、馬も持っている。労働力が余っていたこともあり、三本木が補充部に選ばれた」
─軍部はどのように馬を調達したのか。
伊藤さん「競り売りでは何百頭も買えない。1カ所に上北郡の馬を集めて馬を並べさせ、歩かせて札を張って買った。3~4歳の馬を買い、調教して各部隊に配置した。軍馬は雄馬。雌馬は荷物を積んだり、農耕用となったりした」
─市内には防風林も随所に残っている。
武信さん「周辺に畑が多く、土が飛んだから。スギ、マツ、カラマツなどいろんな種類を植えた」
祐一さん「地図には南北方向に幅の広い防風林が多い。八甲田おろしとやませを考えたのではないか」
─軍馬補充部三本木支部はなぜ、戦時中の44年8月に廃止になったのか。
祐一さん「馬が輸送できなくなった上、航空機による攻撃が主流になり、馬の重要性が低下したためではないか」
─出張所などが奥中山、戸来にもできた理由は。
伊藤さん「元々、馬の飼育が盛んだった。軍部は早くから奥中山、戸来を調査していた」
最終章
往時を物語る遺構点在
取材同行 小泉敦さん
軍馬補充部三本木支部の用地や奥羽種馬牧場、青森種馬所(野辺地町)の関連施設は戦後の開拓・開発で大きく姿を変えたが、今回の調査で建物跡や境界石、土塁、門柱、信仰碑など、往時を物語る遺構が点在していることが分かった。
戦時動員では兵士のみならず、軍馬や軍犬、軍鳩といった「動物兵士」も戦場へ送り出された。兵士は地域の忠魂碑や顕彰碑に名前が刻まれるが、動物の慰霊碑や供養碑は少なく、存在が忘れられている。
かつて北九州市門司港で、全国から集められた軍馬が輸送船に乗る直前に最後の水を飲んだ「出征軍馬の水飲み場」を見る機会があった。大陸に渡れず海に落ちて溺死した軍馬もいたと伝えられ、「言葉をもたぬ戦士」がたどった運命に、戦争の非情さを痛感した。
1937年に三戸駅から五戸、三本木、七戸を経て千曳駅に至る「南部鉄道速成陳情」が周辺町村長の連名で内閣東北局長に提出された。名馬の産地として知られ、軍馬補充部や奥羽種馬牧場・各産牛馬組合があるこの地域の牛馬輸送を行う意図もあったが、実現されなかった。
馬籍簿まで作って管理した軍馬の遺構について、行政がその歴史的価値に関心を寄せ、保存に向けて支援することを望みたい。
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