第23話
津軽地方の防空壕
第2章
鯵ケ沢町内各地の防空壕
2024年から今年にかけ、鯵ケ沢町内各地にある防空壕を訪ねた。町内では、集落によって周辺住民が入れる比較的大きな防空壕が掘られたり、一家や親戚が入るくらいの小さな防空壕が造られたりした。同町には痕跡を含め、確認できる防空壕が多い。
同町は典型的な海岸段丘の地形で、急斜面の崖を利用して横穴を掘った。鯵ケ沢国民学校高等科の生徒や女性も動員され、くわやスコップ、つるはしだけで固い岩盤を削ったという。
同町教委総括学芸員の中田書矢さん(53)の案内で訪れた海岸近くの集落の防空壕は、中が洞窟のようになっており、ひんやりしている。高さ約2メートル、幅約3メートル。岩から水が滴り、長靴を履かなければ内部に入れない。爆風が直接入らないように、10メートルほど進むと右に折れ曲がり、さらに20メートル以上も穴が続く。かつては出入り口がもう1カ所あったが、今はふさがれている。中田さんは「付近の住民全員が何十人も逃げ込むことができたのだろう」とみる。
1 鯵ケ沢町の海岸近くの集落に今も残る防空壕。上から水が滴っている
1 鯵ケ沢町の海岸近くの集落に今も残る防空壕。上から水が滴っている
鯵ケ沢町内のふさがれた防空壕跡
鯵ケ沢町内のふさがれた防空壕跡
中村川沿いの通称岩谷と呼ばれる集落や白八幡宮などがある本町の住宅裏の崖には、現在はふさがれているが、付近住民が逃げ込んだ比較的大きな防空壕の跡がくっきりと見える。
本町の藤井隆さん(72)は「かつては浜から防空壕の入り口が見え、全部で3個あった。高さは8メートル、奥行きは7メートルくらい。子どもたち5、6人は入れた。戦後はごみ捨て場になったが、その後、ふさがれた」と話した。
中心部から離れた中村町の間木集落下の崖には、各家単位で築かれた六つの防空壕のうち五つが残っている。数人から10人ほどが中に入れる大きさで、岩盤は固いが、戦後80年超を経て、一部の入り口には土が堆積している。
同集落の水口竹五郎さん(92)は空襲警報が鳴った際、1、2回、本家の人と共に防空壕に逃げた。水口さんは「わが家の防空壕は父(竹太郎さん)のいとこが終戦の1、2年前につるはしを使い、一人で何日もかけて掘った」と語った。同じ集落の水口俊一(としいち)さん(81)は「青森空襲の時、親に連れられて防空壕に避難したと聞いている。戦後は防空壕にござを敷いて遊んだ。当時は防空壕に下りていく道路があった」と話した。
自宅内に掘られた防空壕も存在した。新町の願行寺には土間部分に黒く色の違った箇所がある。2017年に亡くなった前住職・古舘彰一氏は周囲に、実は防空壕跡だった─と話していた。前住職の息子で現住職の顕彰さん(64)は「物心がついた時にはもう埋められていて、今の状態だった」と話した。
木造高校の校長、鯵ケ沢町教育長を歴任した番場幸浩さん(84)の自宅にもかつて、防空壕があった。
戦時中、実家はこうじ屋を営んでいたという。番場さんは「この辺は周りが田んぼばかりで逃げ場がないので、空襲警報のサイレンが鳴ると、1回外に出て、火事がないか確認して、安全を確認して家の土間に掘ってあった防空壕に逃げた。コンクリート製で、階段があった」と振り返った。
2 鯵ケ沢町の間木集落にある防空壕
2 鯵ケ沢町の間木集落にある防空壕
3 鯵ケ沢町の願行寺の土間にある防空壕跡。色が違う箇所があり、埋め戻されたことが分かる
3 鯵ケ沢町の願行寺の土間にある防空壕跡。色が違う箇所があり、埋め戻されたことが分かる
第3章
西目屋、弘前・東目屋の防空壕
長さ30㍍ まるで洞窟
西目屋村役場近くの防空壕。火山灰土でもろく、触れると土が落ちてきた
西目屋村役場近くの防空壕。火山灰土でもろく、触れると土が落ちてきた
6月上旬、地元に詳しい西目屋村の女性(55)の案内で村役場近くの防空壕を訪ねた。入り口はコンクリート製で奥行き約3メートル、高さ2メートル弱、横幅10メートル。左側に行くと、さらに奥行きが3メートルほどあった。
中は火山灰土でもろく、触れると土が落ちてくる。防空壕の存在は村内では広く知られているという。近くに住む元村職員の小山内猛さん(65)は「小学校の時、中に入って遊んだ。付近に2、3カ所の防空壕があった」と振り返る。
村役場から少し離れた村市集落の外れの崖下にも防空壕とみられる穴がある。管理されていないため、入り口の4分の1ほどが土で埋まっていた。中は高さ3メートル、奥行き10メートル、幅8メートルほど。岩盤は村役場近くの防空壕に比べると固く、鉱石とみられる石もあった。かつて村内にあった尾太(おっぷ)鉱山で勤めていた桧山達野(たつの)さん(76)は「つるはしで削って防空壕を造ったのだろう。鉱石は硫化鉄ではないか」と話す。
同集落出身で村教育長の大滝次雄さん(70)によると、付近はかつて、精米所や製材所を経営していた村の有力者が所有していたといい、大滝さんは「財力があったので、(穴は)使用人が掘ったのではないか」と話した。
5 西目屋村村市集落外れにある防空壕とみられる穴
5 西目屋村村市集落外れにある防空壕とみられる穴
4 弘前市東目屋地区にある長さ約30メートルの防空壕
4 弘前市東目屋地区にある長さ約30メートルの防空壕
西目屋村に隣接する弘前市東目屋地区の国吉集落の崖下には巨大な防空壕が残っている。崖は平成初期に県の急傾斜地対策工事によってコンクリートで固められたが、中は当時の姿をとどめている。2カ所の入り口があり、幅は2.5メートル、高さは3メートルほどだが、長さは30メートルほど。100人以上が入れて、まるで洞窟のようだ。岩盤は比較的固い。
近くに住む成田隆(たか)さん(86)は「戦時中に集落の人みんなが協力して防空壕を掘ったと聞いている。完成してすぐに終戦を迎えたそうだ。戦後は野菜や漬物を入れていたが、今は使っていない」と話す。
同集落の小田原徳安さん(76)は「集落の年配の人は防空壕の存在を知っている。(急傾斜地対策工事の際は)当時の人たちが自分たちで造った防空壕をなくしたくないとの思いで残したのだろう。もちろん、これからも残していきたい」と力を込めた。
第4章
中泊・宮野沢集落と小泊地区の防空壕
青森空襲時50人余りがひしめき合う
6 中泊町の「落とし穴ッコ」と呼ばれる横穴の内部
6 中泊町の「落とし穴ッコ」と呼ばれる横穴の内部
4月、中泊町の宮野沢集落と小泊地区に現存する防空壕や痕跡を巡った。
宮野沢集落にある横穴は「落とし穴ッコ」と呼ばれ、かつては製鉄で使われた場所とみられるが、戦時中は防空壕の役割を果たしたという。
集落中心部から沢伝いに歩いていくと、斜面の少し高い場所に横穴を見つけた。入り口は2カ所あったとみられるが、土はもろく、のり面が年々崩れてきているようだ。穴の高さは1.5メートルほどあり、幅は4メートルほど、奥行きは1メートル弱だった。
近くで農作業をしていた地元出身の外崎信春さん(71)は「集落の人から防空壕があったと聞いたことがある」と話す。防空壕周辺は現在、原野となっているが、かつては沢の上流にため池があり、水田が広がっていたという。
同集落在住で、地元の歴史に詳しい外崎令子さん(84)は「青森の空襲の時には50人余りが穴に逃げて、ひしめき合ったと聞いている」と語る。
集落内にはさらに別の防空壕跡がある。山本則子さん(82)は実家でもある現在の住宅裏に防空壕があったーと教えてくれた。現在は埋められているが、入り口の跡がある。山本さんは「父が造った木の扉があって、屋根がかかっていた。扉を閉めたり、開けたりして遊んだ記憶がある。奥行きは5メートルほどあった」と話した。
旧小泊村が発行した「広報こどまり」の1970年6月号では、小泊地区のライオン岩の付け根にある岩穴(通称「アナマ」)が紹介され、戦時中に住民が穴の入り口に波よけの岩を積んで防空壕代わりに使ったことが記されている。
今は埋められてしまったが、かつては自由に入ることができたという。同地区の磯野譲さん(70)は「中学生の頃に中で友達と遊んだ。結構広かった。奥行きもあって、十数人が入れた」と話す。
近くの橋の脇から岩を越えながら20分ほど歩くとアナマにたどり着いた。高い所で約5メートル、幅は約4メートルの円状の入り口があったが、コンクリートや石で埋められていた。
中泊町宮野沢集落の山本さん宅裏にある防空壕跡(くぼんだ部分)
中泊町宮野沢集落の山本さん宅裏にある防空壕跡(くぼんだ部分)
7 中泊町小泊地区の防空壕として使われていたというライオン岩の付け根にある岩穴。現在は埋められている
7 中泊町小泊地区の防空壕として使われていたというライオン岩の付け根にある岩穴。現在は埋められている
第5章
空襲、終戦直後の思い聞く
壕内ではしか流行 弟亡くした
山本文子さん(鯵ケ沢)
鯵ケ沢町内に住む山本文子(ふみこ)さん(86)は町内の海岸近くの集落出身で、海に近い崖に造られた防空壕に入った経験がある。
防空壕は、近くの複数の町内会の住民が利用。「幅があり、結構大きな穴だった。中では、上からぽたぽた水が垂れてきた。2畳か3畳ほどのスペースに一家が畳を敷いて過ごした」。何家族もいたが、一度座った場所に自宅に戻るまで滞在した。何日も泊まることもあったという。電気はないが、ろうそくの明かりはあり、近所の人と世間話をして過ごした。
空襲警報は昼夜問わず、続く時は連日出された。監視哨から連絡を受けた町内会の役員が「空襲警報発令」とメガホンで叫んで歩いた。空襲警報の前に米軍機が飛んできている時は通り過ぎるまで家の中で、靴を履いたまま、過ぎるのを待ち、いなくなったのを確認してから、防空壕に入ったり、藪に逃げたりした。
終戦には悲しい思い出がある。「私と妹の間に男の子がいた。当時、1歳ぐらい。防空壕の中で、はしかがはやった。弟ははしかに肺炎も併発したようだった。近くの病院に両親が連れて行ったら、先生が酔って帰ってきて門前払いをくった。その帰りに弟が息を引き取って、両親が泣いたのを覚えている。それが終戦の翌日だった」。防空壕ではしかがはやっていて、同じ年頃の子ども2、3人が亡くなったという。
空襲の恐怖に加え、弟の死。「戦争は二度と起こしてはいけない」
防空壕での生活や終戦時の弟の死について語る山本さん=5月
防空壕での生活や終戦時の弟の死について語る山本さん=5月
くわとスコップで何日も掘った
元中学校長・冨田得治さん
2024年5月24日、戦時中に鯵ケ沢町内の税務署に勤めていた元中学校長の冨田得治さん=当時(96)=に学生時代の思い出や戦時中の町内の様子、空襲、終戦直後の出来事について話を聞いた。
冨田さんが旧制木造中学校在籍時、学校のグラウンドの隣接地に鉄砲山があり、2年生の軍事教練で初めて銃を撃った。退役中尉が教官を務めた。「教練は厳しかった」
旧制中学を1年繰り上げて4年で卒業。終戦となった1945年は、税務署で勤めて1年目の18歳だった。それほど大きくはなかったが、土地関係や畑、田んぼなどに関する重要書類を入れるため、倉庫代わりの防空壕を掘った。「職員でくわとスコップを使い、何日もかけて掘った。大変だった」
警戒警報が鳴ると、役所に集まったという。頻繁に警戒警報が鳴り、「周囲の人は子どもを連れて緊張しながら防空壕に逃げていた」。同年7月15日昼、空襲警報が鳴った。昼食時に税務署から出て海を見た。鯵ケ沢沖で輸送船が5機ほどの米軍グラマン機から銃撃を受け、すぐに沈むのを見た。「撃沈ってこういうことなのかと思った」
7月28日夜にはB29爆撃機が深浦から鯵ケ沢上空を通ったのを見た。青森に向かっていた。その後、「青森方面の空が真っ赤になった」。青森空襲だった。
敗戦はラジオで知った。「残念だった」。戦後は進駐軍が鯵ケ沢にも来た。不思議にも「優しかった」と振り返った。
冨田さんは2024年6月7日死去。
戦時中の鯵ケ沢町内の様子や空襲、終戦直後の出来事について話す冨田さん=2024年5月
戦時中の鯵ケ沢町内の様子や空襲、終戦直後の出来事について話す冨田さん=2024年5月
最終章
地域の特性生かし多様な施設
取材同行・小泉敦さん
戦争末期の防空壕から、県内でも、住民が銃後の生活に総動員態勢で向き合っていた実態がよく分かった。
弘前市東目屋地区の巨大な防空壕や、岩盤の洞穴を利用した中泊町小泊地区の「アナマ」、同町宮野沢の「落とし穴ッコ」など、津軽地方では住民が地域の特性を生かし、創意工夫して多様な防空施設を築いた。
また、空襲に備えた家屋の中の防空壕は今のところ、県南地方では十和田市街地に1カ所確認できただけで、戸外に限らず、家屋に防空・防火施設を設けているのは、津軽地方の特徴だと感じた。
鯵ケ沢町では、防空壕の中で子どもが感染症にかかり、命を落としていたことを初めて知った。戦争では弱い者が犠牲になる。救護されることなく亡くなった小さな命があった事実は忘れてはならない。密室で狭く、暗かった防空壕は女性や子ども、高齢者たちに限りなく「死」を意識させた空間であったのだろう。
今では防空壕は少なくなり、身近な生活に忍び込んでいた戦争の恐怖を知る機会はほぼない。戦争の実態を体験できる施設として、防空壕を保存・公開することはできないだろうか。
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