第22話
北海道・旧戸井線と函館市の要塞
1982年に完成した「緑園通」。旧戸井線の線路が現在は遊歩道になっている
1982年に完成した「緑園通」。旧戸井線の線路が現在は遊歩道になっている
迷彩塗装の汐首崎第1砲台跡。上には木々が生い茂り、年月の経過を感じる
迷彩塗装の汐首崎第1砲台跡。上には木々が生い茂り、年月の経過を感じる
全長58メートルの瀬田来第1陸橋。奥にはトンネルも見える
全長58メートルの瀬田来第1陸橋。奥にはトンネルも見える
序 章
津軽海峡防衛
「幻の鉄道」
本県と北海道南部(道南)地域は1908年の青函連絡船就航以来、現在に至るまで、青森市と函館市の「ツインシティ提携」に代表されるような強い結びつきを持っている。両地域に挟まれ、日本海と太平洋を結ぶ役割も持つ津軽海峡は、本州と北海道の物資輸送の面で、また、敵国の侵入を防ぐ意味で重要視されてきた。同海峡を守るため、戦時中は対をなすように軍事施設が置かれ、鉄道敷設計画もあった。5月中旬、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(66)=五戸町=と共に函館市を訪ね、未完に終わった旧国鉄戸井線と函館山の要塞(ようさい)の遺構を訪ねた。
旧戸井線
函館市史や戸井町史、恵山町史などによると、現在の函館市中心部と戸井地区を結ぶ鉄道敷設の計画は、明治時代から浮かんでは消え、また浮かぶ状況を繰り返していた。その後、当時の戸井村が津軽要塞地帯に編入され、津軽海峡防衛のため、汐首崎第1砲台が1933年に完成。戸井要塞まで資材や兵員を輸送するため、現在のJR五稜郭駅から戸井地区の29.2キロを結ぶ鉄道が37年に着工した。
五稜郭駅から湯の川まで線路が敷かれ、湯の川から先も戸井までの路盤や橋梁(きょうりょう)が約9割の工事を終え、44年には完成する予定だったが、資材不足と戦局の悪化に伴い、42年に2.8キロを残して工事が中断。戦後も建設計画が持ち上がり、青函トンネルのルートとしても検討されたが、国鉄の赤字などにより、71年、沿線自治体に用地が売却され、計画は未完に終わった。
第2章
橋脚やアーチ橋など
多数現存
旧戸井線は「幻の鉄路」と呼ばれ、津軽海峡を隔てて対岸にある大間鉄道と同様の末路をたどり、完成に至ることはなかった。その遺構は線路跡を利用した道路や遊歩道として残っているほか、橋脚やトンネル、アーチ橋が現存する。
函館市の函館観光・街歩きガイド「話術調所」理事の里見泰彦さん(83)の案内で、五稜郭駅から戸井地区まで遺構を乗用車で回った。同駅からは線路沿いに道路があり、里見さんは「五稜郭の敷地も線路となった」と教えてくれた。
車道は途中で途切れた。市が線路跡約1.8キロを歩行者・自転車用の遊歩道として整備。「緑園通」として1982年に完成した。訪ねると、観光名所とはなっておらず、市民が行き交う。湯の川地区のさつき橋周辺は線路の面影が残っている。レールが敷設されたのは湯の川駅まで。同駅があった湯川幼児公園には、当時作られた標柱のみが残っている。
戸井方面に車を走らせると、線路跡がそのまま道路になっていて道幅は狭いが、車で走行できる。銭亀沢小学校の旧校舎の跡地付近には戸井線の橋が架かっていた跡を見つけることができた。さらに進むと、汐泊川(しおどまりがわ)にコンクリート製の3本の橋脚が見えた。里見さんは「元々は5本あり、近年まで4本あった。鉄不足のため、鉄筋は使用していない。それでも80年以上経過しても残るくらい強かった」と説明した。
次に石崎駅の跡を訪ねた。駅舎も完成していたといい、コンクリートの基礎部分が残る。里見さんは「当時の函館市内は戸井線の建設に冷ややかだった一方、この辺の人たちは戸井線建設に熱い思いを持っていた」と話す。
汐首岬灯台付近には、全長52メートル、8連アーチの汐首陸橋がある。橋梁のスパン距離が6.3メートルと現存する他の二つのアーチ橋に比べ、長いのが特徴だ。見た目はむつ市大畑町の二枚橋地区に残るアーチ橋に似ている。
銭亀沢小学校の旧校舎の跡地付近にある戸井線の遺構
銭亀沢小学校の旧校舎の跡地付近にある戸井線の遺構
旧国鉄戸井線の石崎駅の基礎とされる部分
旧国鉄戸井線の石崎駅の基礎とされる部分
瀬田来第1陸橋近くにあるトンネル。ライトを当てると、入り口付近が崩落していた
瀬田来第1陸橋近くにあるトンネル。ライトを当てると、入り口付近が崩落していた
戸井高校グラウンド脇にある汐首崎第1砲台
戸井高校グラウンド脇にある汐首崎第1砲台
「北海道~本州最短の地」の看板。17.5キロ先にある大間町がうっすらと見える
「北海道~本州最短の地」の看板。17.5キロ先にある大間町がうっすらと見える
さらに戸井地区中心部方面の瀬田来(せたらい)集落には310メートルのトンネル脇に全長58メートル、橋梁のスパン距離が3.2メートル、18連の瀬田来第1陸橋がある。付近住民の好意でトンネル近くまで行くことができた。トンネルは入り口付近に土砂が堆積していて、中をうかがうことはできない。
全長75メートル、橋梁のスパン距離3メートル、25連の瀬田来第2鉄橋はすぐ下に住宅があり、住民は「地震や大雨の時は崩れてこないか怖い時もある」と話した。橋の脇に車道や集落の会館があり、鉄橋の上で草刈りをしている住民もいた。
2015年に閉校した戸井高校のグラウンド脇には、汐首崎第1砲台跡が残る。30センチ榴弾砲(りゅうだんほう)(放物線を描いて遠方の敵部隊を攻撃する大砲)4門は戦前の1940年7月に撤去されたが、今も迷彩塗装が施された砲側庫や砲座が残る。迷彩塗装は一見、スプレーなどでいたずらされたかのように見えるが、当時からのもの。里見さんは「敵の目を欺くため、迷彩柄にした」と説明した。
96式15センチカノン砲4門を備えた汐首崎第2砲台は同年6月に完成したが、戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって破壊され、遺構は残っていない。
第3章
旧陸海軍18施設 函館山に
「100万ドルの夜景」と言われ、多くの観光客が訪れる函館山(高さ334メートル)にはかつて、津軽海峡と函館港を守る重要な軍事要塞があった。
函館山の要塞は日清戦争終結後の1895年、ロシアとの戦いを想定し建設が決まり、98年から本格的な工事が開始。約4年間かけて5カ所の砲台が造られた。99年に要塞地帯法が制定され、1946年までの47年間、函館山には市民は軍の許可なく立ち入ることができなかった。
当初は函館要塞だったが、27年、津軽海峡の守備が重要視され、津軽要塞に組み込まれた。函館山には旧陸海両軍の計18施設が造られた。
麓から見た標高334メートルの函館山
麓から見た標高334メートルの函館山
「100万ドルの夜景」と言われる函館山の夜景
「100万ドルの夜景」と言われる函館山の夜景
夜に函館山から見えた大間町の町並み(奥側の明かり)
夜に函館山から見えた大間町の町並み(奥側の明かり)
御殿山第2砲台跡を見て回る梅本さん㊧と小泉さん
御殿山第2砲台跡を見て回る梅本さん㊧と小泉さん
函館山ふもとにある標柱石。「津輕要塞第一地帯標」の文字が確認できる
函館山ふもとにある標柱石。「津輕要塞第一地帯標」の文字が確認できる
現在は散策コースが設けられ、6施設は一般に公開されている。2001年には函館山は「函館山と砲台跡」として北海道遺産に選定された。
函館観光街歩きガイド「話術調所」代表の梅本克彦さん(72)を案内役に、3時間余りかけて函館山を歩いた。山に登る前、ふもとの船魂神社の鳥居前にある「津輕要塞第一地帯標」「明治32年8月10日」と書かれた標柱石を訪ねた。明治32年は要塞地帯法が制定された1899年。梅本さんは「99年以降、戦後までここから上は市民は入れず、地図からも消され、写真を撮ることも許されなかった」と語った。
次に車で山を登り、つつじ山駐車場から入山。28センチ榴弾砲4門を設置し、1901年に完成した御殿山第2砲台跡は砲座や石積みの防御壁、20メートルほど離れた兵士同士が連絡を取り合った伝声管の穴などが残り、戦時中のたたずまいが感じられる。梅本さんは「石垣も当時のまま。最大射程は7.8キロ。ここからだと湯の川まで届く程度」と話す。
同年完成の2カ所ある千畳敷砲台の施設跡を抜けると、千畳敷戦闘司令所跡があった。円形の観測座から重厚な石段を下ると、レンガ造りの作戦室、司令を砲台に伝える左右各4台分の電話室が現れる。薄暗い空間から兵士たちの息遣いが伝わってくるようだった。
演習用の小型の砲台と観測所跡のある入江山を経由し、最後はふもとに戻る途中にある1899年完成の薬師山砲台を訪れた。ここも要塞を感じさせる造りで、砲座や砲具庫があり、レンガが崩れかけた砲具庫から1世紀超を経過した年月の経過を感じさせた。
要塞が軍事的影響力を持ったのは日露戦争までで、飛行機での戦いが主流になると、施設も古くなっていたため、1945年7月の空襲時にはほとんど役に立たなかったという。
石壁やレンガの一部が崩落している薬師山砲台の砲具庫
石壁やレンガの一部が崩落している薬師山砲台の砲具庫
函館山の砲台跡では、高い石壁の間を歩いた
函館山の砲台跡では、高い石壁の間を歩いた
約120年が経過した現在も当時の姿をとどめる千畳敷戦闘司令所。梅本さん㊧の説明に聞き入る小泉さん㊨
約120年が経過した現在も当時の姿をとどめる千畳敷戦闘司令所。梅本さん㊧の説明に聞き入る小泉さん㊨
入江山観測所にある演習用の砲台
入江山観測所にある演習用の砲台
千畳敷戦闘司令所の電話室。ここから各砲台に司令を伝えた
千畳敷戦闘司令所の電話室。ここから各砲台に司令を伝えた
入り口側から見た千畳敷戦闘司令所
入り口側から見た千畳敷戦闘司令所
瀬田来第1陸橋やトンネルが建設された当時の出来事について語る後藤さん
瀬田来第1陸橋やトンネルが建設された当時の出来事について語る後藤さん
第4章
トンネルやアーチ橋
工事に多くの朝鮮人
6歳の時作業目撃 後藤さん(88)
函館市瀬田来町にある旧戸井線の瀬田来第1陸橋や陸橋に続くトンネルがある集落で生まれ育ち、亡き妻が本県蓬田村出身という後藤良一さん(88)は「6歳の時にトンネルやアーチ橋の工事作業の様子を見た。トンネルやアーチ橋は結局使われることなく戦争が終わった」と振り返った。
建設工事の時には、数十人の朝鮮の人がいて、ツルハシとスコップを持って作業していたという。「タコ部屋(劣悪な作業員宿舎)が1キロほど戸井側にあった。(朝鮮人の作業員が)病気をしたり、怠けたりすると、ひどい目に遭ったと聞いたことがある」と話した。
工事中に自宅の壁に落石が当たり、日本人の現場監督が謝りに来たこともあったという。
「この辺にも空襲があり、住民が亡くなった。空襲の際はトンネルに逃げた。トンネルは手前側が防空壕(ごう)だった。トンネルを抜けた先に高射砲の砲台があり、トンネルの奥側は火薬庫の役割をしていた」と証言する。「戦争が終わったら火薬は海に捨てられた。真ちゅうが付いていて、拾ってけがをした人もいた」
アーチ橋やトンネルとは別に、道路を造る工事もされていて、日本人の兵士が作業していたという。
最終章
戸井と大間 共通点多く
取材同行 小泉さん
明治中期に、赤レンガや石で丹念に築き上げられた函館山の要塞は崩落の危険性から立ち入り禁止の場所もあるが、120年以上たってもなお頑丈で今では、市民の憩いの場ともなっている。要塞跡から大間崎や下北半島、東側に汐首岬、西側に松前半島が遠望でき、津軽海峡が本州と北海道を結ぶ交通の要衝だったことが分かる。
一方、旧戸井線沿いを訪ね、戸井と大間の多くの共通点を発見した。戸井線は、大間鉄道と同様、要塞へ軍事物資や兵士を運ぶ目的で建設された未完の鉄道である。津軽海峡最短の距離にある戸井と大間には、ともに海峡防衛の要塞が築かれ、軍用の鉄道敷設を急いだ。また、徴兵で成年の日本人が不足していたため、植民地から多くの朝鮮人が動員された。
戦時中に海軍の警備府があった大湊(むつ市)を起点に、本州と北海道を結ぶ軍事的動線として「大湊─大間─戸井─函館」が想定され、そのために、国は要塞や鉄道などを設置して、下北半島と、函館や戸井を含む亀田半島を重要な軍事拠点として位置づけていたのではないか。
戸井線と函館山の要塞に関しては、函館市が公式観光サイトで戸井線を歴史的建造物として紹介。また、市は函館山の要塞の散策マップを作成し、観光客らが安心して遺構を巡ることができるようにしている。本県では、風間浦村が下風呂地区に大間鉄道のアーチ橋を整備しているが、県内でも、行政や民間による戦争遺構の調査・保存・発信に向けた取り組みがさらに生まれることを期待したい。
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