第20話
防空監視哨 県内各地に
序章
序章
敵機識別
目と耳で
戦時中、国内には防空監視を担う「防空監視哨(かんししょう)」が置かれ、人が目と耳によって航空機を速やかに発見・識別して電話で関係機関に知らせた。軍と民間の組織があり、民間は警察が所管した。県内では、防空法が施行された1937年10月以降、各地に置かれ、その建物のほとんどが木造だったため、解体されたり、朽ちたりして、現在、完全な形で残っているものはない。2024~25年にかけ、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(66)=五戸町=と共に、わずかな痕跡を求め、県内の監視哨があったとされる場所を訪ねた。
県内の防空監視哨 「青森県警察史 下巻」(県警本部発行)などによると、本県では知事を本部長とする県防空本部の下に防空監視隊本部が置かれ、各本部管下の39カ所の防空監視哨が配置された。監視哨の一部は警察署の楼上や巡査駐在所に置かれたが、多くは丘の上や海岸の近くが選ばれた。東通村には大湊警備府直轄の監視哨があったという。
防空監視隊(哨)員は、民間人の中から青年学校生や卒業生などが中心で、警察署長が任命したとされる。一つの監視哨の配置人数は約30人。県内では千人を超えていたとみられる。1943年10月以降、本県では監視隊(哨)員に女性が採用された。
制海・制空権を失った戦争末期には、女性監視隊(哨)員は空襲の危険にさらされながら任務を全うし、8人が死亡。青森防空監視隊本部の隊員6人は青森空襲で、横浜町の監視哨員2人は45年8月10日に陸奥横浜駅周辺に向けた敵機からの機銃掃射で被弾し、命を落とした。
第1章
六ケ所村尾鮫 コンクリの基礎今も
六ケ所村尾駮の防空監視哨は高台に位置し、太平洋や尾駮沼を見渡せる。今も監視哨に関連した構造物のコンクリート製の基礎が残る。村立郷土館長の鈴木浩さん(68)による住民からの聞き取りでは、広さは四畳半ほどで狭く、大人2人ほどが入れるコンクリート製の穴があり、ほかは土間だったという。
中里防空監視哨は中泊町中里地区のスーパー近くの丘にあった。町博物館長の齋藤淳さん(59)の案内で、やぶの中を5分ほど歩くと、監視哨跡に。少し平らになっているが、今は木が生い茂るのみだった。
尾駮防空監視哨付近に残っていた関連する遺構
尾駮防空監視哨付近に残っていた関連する遺構
宮本さんが書き残した中里防空監視哨の側面図
宮本さんが書き残した中里防空監視哨の側面図
中里防空監視哨で撮影された写真(宮本家所蔵)
中里防空監視哨で撮影された写真(宮本家所蔵)
副哨長だった宮本芳春さん(2020年に92歳で死去)の証言によると、監視哨は木造平屋に1坪(3.3平方メートル)の広さの立哨台(りっしょうだい)を載せた構造で、周囲にはガラスが張り巡らされた幅1メートルほどの回廊があり、そこを巡回しながら、双眼鏡で監視した。近くに聴音壕(ごう)があった。
4班あり、24時間ごとに交代。班は副哨長1人、助手1人、女性哨員6人で構成され、哨員2人ずつが1時間監視した。情報は直通の警察電話で弘前防空監視隊本部に送った。
鯵ケ沢防空監視哨は、現在は天童山(てんどうやま)公園となっている標高32メートルの丘にあった。当時の遺構は残っていない。町教育委員会総括学芸員の中田書矢さん(53)によると、淀町から1943年に移され、建物を土塁で囲んでいたという。
元監視哨員の上田幸悦さん(2016年に91歳で死去)の証言によると、近くに聴音壕があり、飛行機が来たと思ったら、穴に入り、方角を確認した。
1階には通信室や仮眠室、炊事場があり、玄関には立哨台に登る階段があった。立哨台は1坪ほどの建物で、その周りを回って監視した。明文化されていなかったが、女性は結婚すると辞めていったという。
八戸市では、種差観光協会長の柳沢卓美さん(77)の案内で、鮫防空監視哨があった鮫町の物見岩と、法師浜(ほうしはま)近くにあった種差防空監視哨跡を訪ねた。
最初は鮫町の監視哨が完成し、戦争が激しくなり、1944年に種差にもできた。物見岩は海抜52メートルにあり、硬い安山岩でできている。旧八戸シーガルビューホテル付近から徒歩で登ると、海が一望できる。「天気がいい日は下北が見える」と柳沢さん。近くにはコンクリート製の遺構があり、小泉敦さんは「監視哨の跡だろう」とみる。
種差防空監視哨跡に向かう道は残っていたが、監視哨は跡形もなかった。かつては海を見渡せたが、今は林があり、見えない。同監視哨で勤めた柳沢さんの伯母が結婚を機に退職した際に贈られた感謝状が今も残る。鮫と種差の監視哨で勤めた石橋カネさん(2021年に97歳で死去)の日記は監視哨での生活や戦時中の様子を紹介する資料として八戸市史や小泉さんの著書「『北』のまなざし」で紹介されている。
外ケ浜町蟹田地区では、監視哨があったとみられる場所は消防の屯所となっていた。秋田県境の深浦町大間越では、監視哨が上に建っていたとされる鉄道のトンネルが確認できた。
柳沢さんの伯母が退職の際に受けた感謝状
柳沢さんの伯母が退職の際に受けた感謝状
第2章
「空襲警報 緊張が走った」
弘前の防空監視哨勤務 宮平さん(東京)
今月中旬、戦時中に弘前市の防空監視隊本部で情報の伝達係として働いた宮平(旧姓・西澤)恵世(えせ)さん(101)=東京都=に当時の業務の様子などについて聞いた。
宮平さんは弘前女学校(現弘前学院聖愛中学高校)を卒業後、18歳で監視隊員となり、20歳の終戦の少し前まで勤めた。実家は元大工町にあり、軍にみそやしょうゆを卸す問屋だった。
監視隊は一番町の坂を上った辺りにあった。「警察署の敷地内の裏側にあり、木造2階建てのあまり広くない建物で、老朽化したものをリフォームしていた」。屋外には、戦闘機などを監視するため、階段がある火の見やぐらのような塔もあった。
「監視隊は元々、男性だけの職場だったが、女性の募集があり、警察署に集まると『男性は出征していなくなるので女性が通信の仕事をする』と言われた」。採用されたのは女学校卒業者や軍人の娘だった。
五所川原、深浦、大戸瀬などの監視哨を担当。各地の監視哨員が戦闘機のエンジン音を聞いたり、船のマストなどを発見したりすると、見聞きした概要と向かった方向に関する情報が監視隊に寄せられ、宮平さんらが連絡内容を報告し、重要な情報は別の机にいる班長が軍隊に連絡した。
監視隊は8人の班が四つあり、4日に1回、交代で午前8時から翌朝8時までの24時間勤務した。最初は数人の男性が指導に当たったが、幹部以外は出征していなくなった。警察署長も時折、監視隊を訪れた。女性は班長、副班長がいて、各班にいた男性の傷病兵が取りまとめ役となった。宮平さんが一番年下で、30歳くらいの女性もいた。
弘前市の防空監視隊本部で勤務していた時代を振り返る宮平さん
弘前市の防空監視隊本部で勤務していた時代を振り返る宮平さん
どの監視哨からの連絡か分かるよう監視哨分の電話があった。他の1台は軍につながる特殊なもので、暗号で内容を知らせた。
部屋に戦闘機の模型と写真集があり、暗号のほか、戦闘機の種類も覚えさせられた。エンジン音で機種を判断する訓練もあった。「最初は難しくて大変だったけど、親に恥をかかせまいと一生懸命勉強した」。連絡内容は戦闘機の機種不明だったり、マストの色だけ分かったりして、進行方向を告げる内容が多かったという。給料も出た。「自宅を出る時は、これで会うのが最後かもしれないという思いで、家族に『さようなら』と言って出かけた」
県から抜き打ちで査察が来て、試験もあった。「3位で400円もらった」
監視隊には布団を敷いた部屋があり、4時間ごとに交代して仮眠をとることになっていたが、寝られずおしゃべりをした。自炊をして、ストーブの火で調理した。風呂はなかった。「食料は配給だったが、監視隊の腕章を着けていると、魚や肉も売ってくれた」
同年代の女性が集まっていたためか、勤務中に監視隊を訪れた若い男性の話など、たわいもない話をすることもあった。「次に来る時は、おそろいの服を着る約束をすることもあった」。ただ、戦争を話題に話をすることはなかった。口外しないように言われていたわけではないが、隊員はみんな、家族にも勤務内容を話すことはなかった。
「空襲警報が鳴るようになった時は監視隊内も弘前の街にも緊張が走った」。当初は空襲警報が鳴ると、全員出勤だったが、途中からは幹部と当番の人だけで対応することになった。
1945年7月28日の青森空襲後すぐに、青森市の監視隊に勤める同年代の女性が空襲で亡くなったことを漏れ聞いた。「怖かった」。戦争が激しくなると、「負け戦と、うすうす感じていたが、口にすることはなかった」。終戦時は、ほっとした。「子どもを亡くした人や親子、きょうだいとお別れした人が多いから、戦争は嫌だなと思った」
最終章
戦時中、監視哨の果たす役割大きく
取材同行の小泉敦さん
海に囲まれている本県では戦時中、防空監視哨が果たす役割が大きかった。視界良好で静かな場所に建てられた監視哨小屋(哨舎)には見張り台(立哨台)や通信室、仮眠室などがあった。戦争末期には戦地へ出向く兵士が多く、哨員の多くは若い女性となった。
県内の防空監視哨はおおよその場所が確認でき、その一部は写真として残る。さらに、哨員の日記や名簿、感謝状なども残されており、防空監視哨の全体像を把握できる。六ケ所村尾駮の監視哨跡は基礎部分が残る極めて貴重な遺構跡と感じた。
戦時中、各地域に造られた防空監視哨は住民の日常生活に関わる身近な戦争遺構であり、地域から戦争を考える貴重な素材となる。近年は各地で防空監視哨跡を戦争遺構として残すために、記念碑などを設置する動きがある。県内でも地域住民らと協力して看板などを設置して、後世に防空監視哨があった痕跡を残すことができないだろうか。
紹介した遺構は許可なく立ち入りできない場所があります。
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