第19話
東京の児童集団疎開
序章
空襲逃れ親元から本県に
戦時中、都会の子どもたちを爆撃から守るために、国が国民学校初等科(3~6年)の児童を安全な地域へ教師の引率で避難させ、寺院や旅館、民家などで集団生活させる学童集団疎開が行われた。また、親戚、知り合いを頼る縁故疎開もあった。疎開先として、首都圏から離れた本県も選ばれた。東京都発行の「資料 東京都の学童疎開 教育局学童疎開関係文書」によると、学童集団疎開で本県に渋谷区21校、荏原(えばら)区(現品川区)11校の計2745人が訪れている。元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に、県内の疎開先や疎開に関係した人たちを訪ねた。
1993年に行われた慶応義塾幼稚舎木造疎開学園同窓会歓迎会の資料(西教寺提供)
1993年に行われた慶応義塾幼稚舎木造疎開学園同窓会歓迎会の資料(西教寺提供)
つがる市木造の銀杏ケ丘公園にある慶応義塾幼稚舎の「疎開学園の碑」
つがる市木造の銀杏ケ丘公園にある慶応義塾幼稚舎の「疎開学園の碑」
2009年に慶応義塾幼稚舎の卒業生らが寄付した金香炉
2009年に慶応義塾幼稚舎の卒業生らが寄付した金香炉
第1章
本堂で寝起き
明るく暮らす
2025年9月、小泉敦さんと共に、慶応義塾幼稚舎(東京)の1~6年生の児童142人が疎開先の静岡県から再疎開したつがる市木造地区を訪れた。
慶応義塾幼稚舎の子どもたちは1945年7~10月に滞在。旧制木造中寄宿舎のほか、西教寺、慶応寺で生活した。
慶応寺の前住職・菊池成(おさむ)さん(94)によると、1~3年の33人が同寺で過ごした。慶応の子が同じ名称の慶応寺で過ごしたのは偶然だったという。
菊池さんは「めそめそしている感じはなく、明るく過ごしたという印象を強く持っている。帽子をかぶり半ズボン姿でハイカラだった。当時、内閣のアジアを担当した青木という大臣の孫も、(大手生活用品メーカー)ライオンの小林家の孫も来た」と振り返る。
木造の子どもたちと一緒に遊ぶ場面はなかったという。「言葉も服装も違った子が田舎に来た。地元の人の中には、あまりいい印象を持っていない人もいた」
「疎開した子どもたちは本堂で寝起きしていた。脇にはご飯を食べたり、勉強したりした場所もあった。寮母もいた。職員室も設けられ、医師の夫婦と看護師がいた部屋もあった」。79年に建て替えたので、当時の本堂はない。
「竿(さお)を刺して、ナマズが捕れたとか大騒ぎして、子どもたちにとっては楽しみもあった」。当時は野菜不足だったが、岩木川に水浴びに行く子どもたちの姿を見た川除(かわよけ)村の村長の妻が住民に呼びかけて野菜を贈ってくれた。
近くの西教寺には、3、4年の子どもたち38人が疎開し、本堂が生活の場だった。看護師、寮母もいた。現在も何年かに一度、慶応義塾幼稚舎の卒業生が家族と共に訪れ、本堂で遊んだ話をしていくという。
同寺が実家で、元県出納長を務めた藤川直迪(なおみち)氏(2016年に86歳で死去)のおいに当たる住職・藤川康(やすし)さん(52)は「西教寺は1886~87年に建てられ、本堂は戦時中と同じ」と語った。
卒業生らが2009年、住民への感謝と平和への願いを込め、5、6年生73人が寄宿した旧制木造中学校跡地の銀杏(いちょう)ケ丘公園に「疎開学園の碑」を建立した。毎年、津軽地域在住の慶応大学卒業生でつくる「慶應義塾弘前三田会」が碑を清掃している。
碑が建った際、西教寺には卒業生らが寄付してくれた焼香の金香炉があり、今も大切に使っている。
第2章
弘前・船沢地区
疎開記念の柱時計
今も時刻む
青山学院緑岡初等学校の児童が疎開した弘前市船沢地区(当時の船沢村)の4軒の民家のうち、對馬家は現在の同市宮舘にある国名勝で大石武学流枯山水式庭園の「瑞楽園」にある建物だ。
同市教委によると、對馬家の先祖は鎌倉時代中期に対馬国(現長崎県対馬市)から移住。主屋の建築年代は不詳だが、天保年間に活躍した儀兵衛が建築に関与していたという口伝がある。儀兵衛の子・源太夫は船沢村の初代村長だった。
建物と庭は1966年に弘前市に寄贈され、4~11月に一般公開している。当時のまま保存されている住宅部分に入ると、旧家にふさわしい趣で、広い座敷がある。座敷は映画「奇跡のリンゴ」のロケにも使用されたといい、ここに疎開児童が寝泊まりしたとみられる。
青山学院緑岡初等学校の児童たちが疎開した瑞楽園にある旧對馬家の広間
青山学院緑岡初等学校の児童たちが疎開した瑞楽園にある旧對馬家の広間
当時、青山学院緑岡初等学校の児童だった井上文子さん(92)が約3カ月過ごした久保田家も、戦時中と変わらぬ姿のままだ。
久保田家の子孫で、現在も井上さんと交流のある久保田雅代さん(78)は、戦時中の疎開の様子について家族から聞いたことがないというが、戦後に訪ねてきた井上さんから当時の話を聞いた。「(疎開児童は)座敷に寝泊まりしたようだ。台所は別にあって、今も使っている井戸を使っていて炊事していた。疎開児童は不自由なく食べることができたそうだ。井上さんとお付き合いが始まったのはご縁だと感じる」
同地区の船沢小学校(全校児童91人)の玄関には「贈 疎開記念 青山学院初等部」と書かれた古めかしい大きな柱時計があり、現在も時を刻み続ける。戦時中の疎開児童と教職員が「並々ならぬ御世話をして下さいました」(青山学院初等部学童集団疎開記念事業趣意書)として、56年に時計を船沢小に贈った。
時計は歴代の教頭が週に1回、ねじを回して動いている。葛原毅爾校長(58)は「『ボーン、ボーン』と鳴る。子どもたちにとって、柱時計は日常の風景となっている」。
2025年夏、青山学院初等部の児童と家族が「学校で疎開について学んだ。ぜひ時計を見たい」と同校に訪ねてきたという。
第3章
板柳町・大善寺 畑を作って野菜食べた
黒石市・来迎寺 黒板を急造、勉強した
2025年9月、小泉敦さんと共に、東京の子どもたちが疎開した板柳町の大善寺と黒石市の来迎寺(らいごうじ)を訪ねた。
大善寺現住職の大屋俊考(しゅんこう)さん(73)は「先代から、渋谷の長谷戸小学校の子どもたちが疎開したと聞いている。本堂の裏で畑を作ったようだ。野菜を食べるなどして空腹を満たしたようだ」という程度で、詳細について聞いたことはないという。 板柳町誌によると、50人弱の児童と教員4人が1945年6~10月に滞在。音楽の授業も寺で行い、理科の実験などは国民学校で行った。
95年7月に戦後50年の節目に、子どもと孫を連れて、神奈川県から訪ねてきた女性がいて、懐かしがっていたという。後日、送られてきた手紙には「実りの秋と広いリンゴ畑と列車が突っ走っていたのが一番の思い出。静かでのどかで極楽に来たようでした」と書かれていた。 大屋さんは「よっぽど印象が強かったのか、息子、孫に教えたかったのかもしれない」と語った。
来迎寺前住職の遠藤麟雄(りんゆう)さん(95)は旧制弘前中学校に通学していたころ、荏原区(現品川区)の戸越近くの第二延山国民学校の子どもたちが来た。
「父は黒板を作らせた。それで勉強したと思う」と思い起こす。子どもたちは庫裏で生活していたといい、親から「そっちにいくな」と言われ、直接会ったことはなかったが、「お父さま、お母さま、おはようございます。おやすみなさいという声は聞いたことがある」と話す。
ある時、子どもたちの親が2人訪ねてきて、自分たちの子どものために豆を差し入れに持ってきたが、全員分がないから断ったことがあったという。
板柳町の大善寺の外観
板柳町の大善寺の外観
黒石市の来迎寺の外観
黒石市の来迎寺の外観
第4章
当時を語る
青山学院緑岡初等学校時代に現在の弘前市船沢地区に疎開した井上さん
青山学院緑岡初等学校時代に現在の弘前市船沢地区に疎開した井上さん
井上さんが過ごした久保田家。現在も当時の姿をとどめている
井上さんが過ごした久保田家。現在も当時の姿をとどめている
弘前に疎開した井上さん(東京)
生きるがために青森へ
2025年末、戦時中に弘前市に疎開した井上文子(ふみこ)さん(92)=東京都=に当時の思い出や戦争に対する思いを聞いた。
井上さんは東京都中央区日本橋出身。戦時中の1943年、大田区の雪谷に大きな防空壕(ごう)があると聞き、一家で移った。近くの学校に入り、学校単位で静岡の伊豆に学童疎開したが、食糧事情が悪くて栄養失調となり、自宅に戻った。
東京では45年3月に下町で、5月には山の手で大きな空襲があった。夜中に何度も空襲警報が鳴って、防空壕に入った経験がある。
井上さんには、逃げることができる「田舎」がなかった。「明日の命も分からない状況で、母は子どもたちの命を助けたいとの思いで、青森県に再疎開する青山学院にお願いして入学させた」
青山学院緑岡初等学校は静岡県の伊豆・湯ケ島に疎開。その後、東京に近い地域も空襲が激しくなり、渋谷区が指定した本県へ再疎開することになった。弘前市は初代院長の本多庸一氏、第7代院長の笹森順造氏らの出身地で、笹森氏が疎開をサポートした。
井上さん自身は本県を訪れるのが初めてだったが、「生きるがために青森に行った」。児童61人と教職員ら10人は品川駅から列車に乗り、45年6月12日、弘前市に到着した。「途中で空襲に遭って避難した。丸2日間、列車に乗った。おにぎりは腐って糸を引いていた。食べるものがないからそれでも食べた」
弘前では、旅館や弘前女学校(現弘前学院聖愛中学高校)に宿泊していたが、青函連絡船が爆撃されて弘前も危ないということで、弘前市船沢地区(当時の船沢村)に移動し、4軒の民家に分宿した。民家はいわゆる当時の豪農や地区の有力者の住宅だった。
久保田家に泊まったのは男3人、女8人。「親と離れる寂しさよりも、空襲から逃れるためにはどうしようもないという気持ちだった。船沢では空襲の心配からは解放された」
日本は食糧難の時代だったが、「不自由なく米も食べることができた。秋においしいリンゴもカボチャもいただいた」。
トイレは外にあり、馬小屋の前を通らなければならず、夜に行くときは馬になめられるんじゃないかと思って嫌だったという。
久保田家では食事作り、洗濯もしなければならなかった。たまにリンゴ畑の草取りも手伝った。「学校へは行かず、たまに久保田さんの部屋で漢字を書いたくらいで、勉強はほとんどできなかった。地元の子どもと話をする機会もなかった。散歩したり、歌を歌ったりして1日を過ごした。言葉は『ばっちゃ』『べご』など、独特だった」
玉音放送は全員で聞いた。子どもなので何が起きたのか分からなかったが、無条件降伏と説明してもらった。深刻に考えなかった。「戦後、お世話してくれた先生が『今まで教えてきたことと違う。もう教えることができない』とおっしゃってお辞めになった。それくらい時代が変わってしまった」
本県に悪い印象はない。「今でも岩木山のきれいな姿、リンゴ畑を覚えている。よそものでも分け隔てなく食べさせてもらった。無事に今暮らせているのは(疎開中の)支えがあったから。とにかく助けていただいた」と振り返る。
帰ってきた東京は上野駅に屋根がなくて、どこも焼け野原だったが、「親元に帰れた安堵(あんど)感もあった」。
戦争への嫌悪感は今も抱き続けている。「ウクライナの人の心境がすごく分かる。戦争を体験していない人たちが政治をつかさどるようになり、とても心配。世界から戦争がなくなることを願う」
黒柳徹子さんの同級生・沖田さん
誰とでもしゃべる子で働き者
戦時中、俳優・エッセイストの黒柳徹子さんの一家は偶然知り合った農家を頼りに南部町の諏訪ノ平駅近くの高瀬橋のたもとに疎開した。同駅は黒柳さんが三戸町立実科高等女学校(現三戸高校)への通学で利用したことで知られ、今年に入って、新駅舎が完成した。
三戸町梅内に生まれ、現在は南部町沖田面に住む沖田玉枝さん(95)は高等女学校時代、黒柳さんの同級生だった。黒柳さんといえば、今や芸能界の大御所だが、沖田さんは「徹子」と呼ぶ。「徹子は朗らかな性格で、何でも覚えていて、誰とでも、今みたいにぺちゃぺちゃ、ぺちゃぺちゃ、しゃべる子だった。でも、働くときは一生懸命だった。泣いているのを見たことはなかった」
戦時中の学校では、2時間だけ勉強して、他の時間は1~4年まで7班に分かれて、城山公園の広場を畑にして耕した。沖田さんは黒柳さんと同じ班で「トウモロコシと豆を植えた。先生方がトウモロコシを煮て食べさせてくれた」。
黒柳さんと共に過ごした戦時中について語る沖田さん
黒柳さんと共に過ごした戦時中について語る沖田さん
黒柳さんと共に過ごした戦時中について語る沖田さん
黒柳さんと共に過ごした戦時中について語る沖田さん
当時、黒柳さんの母親がドラム缶を買って、水を沸かして風呂にした。「徹子がすぐに上がるから、お母さんが肩を押さえていた」
同級生がお金を出し合って、黒柳さんに服を贈ったこともあったという。
戦後、黒柳さんは突然姿を消した。「お別れ会はなかった。東京に帰ったのは分からなかった」
その後、沖田さんは一度だけ黒柳さんと会った。同級生に「青森市のホテル青森で講演する」と連絡があり、15人ほどで列車に乗って会場に行った。「同級生たちに『一番いい席に座って』って言ってくれた」。ほとんど話せなかったが、「『あぁ、玉枝さん』って覚えていてくれた」。
講演の時期は不明だが、黒柳さんは2011年、テレビ番組の収録で同市を訪れている。
南部町は27年4月、町役場南部支所の2階に黒柳さんの疎開中の写真などを展示する「(仮称)黒柳徹子記念ルーム」を開設予定。沖田さんは記念ルーム開設時の黒柳さんとの再会を楽しみにしている。「徹子がテレビに出ているのを見ていると苦労した人ではないみたい。立派だと思う。一生懸命よく頑張っているねと伝えたい」
南部町に疎開した櫻井さん(五戸町)
戦争終わった時ほっとした
南部町の諏訪ノ平駅前にあった母親の実家に疎開してきた櫻井艶子さん(85)=五戸町=は東京で両親と妹の4人で暮らしていたが、東京大空襲の前に、一人で列車に乗せられて預けられた。母親の実家では大湊から疎開で来た子どもらと共に、大勢の中で暮らした。
祖母は優しく、東京時代に比べ、食べることには苦労しなかった。相内国民学校には黒柳徹子さんの弟と一緒に入学した。ただ、話をした記憶はないという。
米軍の飛行機が見えて、空襲警報があるとみんなで山側にあった大きな防空壕(ごう)に行った。「戦争が終わった時はほっとしたことを覚えている」
両親が東京で営んでいた洋裁店は空襲に遭い、戦後に両親と妹も久保田家に移って来た。東京生まれの父親は標準語しか話せなかったので「東京から逃げて来た朝鮮人ではないか」といううわさが立ったことがあった。父親はリンゴの行商や食堂を経営して一家の生活を支えてくれた。
母親は黒柳さんの母親と仲が良く、お互いに家の行き来をしていた。それが縁で戦後、櫻井さんの妹が黒柳家にお手伝いに行くことになった。「当時は諏訪ノ平に黒柳家と櫻井家以外にも疎開していた家族が結構いた。駅は行商の人たちで、いつもにぎわっていた」
諏訪ノ平駅に進駐軍の米兵が列車で来てチョコレートやガムをくれたことがあった。大人から「行くな」と言われたが、子どもたちはみんなで喜んで行ったという。
戦争によって、櫻井さんの生活が大きく変わった。「戦争は絶対にしてほしくない」
戦時中の疎開について振り返る櫻井さん
戦時中の疎開について振り返る櫻井さん
終章
疎開は将来の戦力蓄え、育てる意図
取材同行 小泉敦さん
津軽の農村部は農作物に恵まれ、大人数を引き受けられる寺院や大地主、温泉地が多く、県外の児童たちの疎開先として適していたのだろう。一方、南部には軍事施設が多く、ヤマセによる農作物の不作もあり、受け入れ地として不十分だったのではないか。
第八師団が置かれた弘前市内の児童たちも縁故疎開により、600人以上が近郊農村に。青森市でも空襲から逃れるために約8100人が近隣に縁故疎開していた。
八戸市近郊は縁故疎開が多く、終戦直前には同市内国民学校の三戸郡への集団疎開もあった。
疎開は子どもの命を守るだけでなく将来の戦力を蓄え、育てるためでもあった。「避難」ではなく「疎開」としたのは、逃げるという意味を避ける意図があったと言われる。だからこそ、井上さんの「生きるがために青森へ行った」という言葉に、深い意味を感じる。
世界には今も難民として日常を過ごす子どもたちがいる。これ以上、疎開や難民によって、子どもたちが悲しい思いをすることのない世の中にしたい。
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