第18話

海自大湊基地と

むつ市内

海自大湊基地内にあり、現役の工場として機能している旧大湊工作部第一工場

海自大湊基地内にあり、現役の工場として機能している旧大湊工作部第一工場

序章

北方海域警備担う「街」

 むつ市大湊地区は1902年に大湊水雷団が開設されて以来の「基地の街」だ。基地は現在に至るまでロシアや中国などを念頭に、「北の守り」として北方海域を警備する重要な役割を担ってきた。2024~25年にかけ、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に、旧海軍時代から多くの施設があった海上自衛隊大湊基地を中心に現在も残る戦時中の遺構を訪ねた。

第1章

戦時の建築物

現役」多く

冬を除き一般公開されている北洋館

冬を除き一般公開されている北洋館

北洋館で展示している旧海軍の機銃

北洋館で展示している旧海軍の機銃

 むつ市の海上自衛隊大湊基地には、戦時中の姿をとどめたままの遺構が多い。多くの遺構について詳述している「大湊警備府沿革史─北海の護り」など、地元の軍事史学会会員・飛内進氏(2019年に86歳で死去)の著作を基に、海上自衛隊大湊地区総監部の協力を得て基地内を取材した。
 1916年に完成した石造りの重厚な北洋館は戦前、旧海軍の親睦・研究団体「水交社」の支社で、海軍士官の社交場だった。釜臥山から採石された安山岩が使われ、きれいに保存されている。戦後は通信隊の建物として使われた時期もあったという。
 現在は冬を除く土日祝日に公開し、戦時中の関連資料約千点を展示。玄関前には「大湊要塞(ようさい)地帯第二区」と書かれた標柱石もある。

北洋館前にある「大湊要塞地帯」などと書かれた標柱石

北洋館前にある「大湊要塞地帯」などと書かれた標柱石

旧大湊工作部第一工場の内部

旧大湊工作部第一工場の内部

 海に面し、32年築の旧大湊工作部第一工場が残る。トタン張りの年季の入った大きな建物。戦時中の隊員の再会を報じた83年11月25日付の本紙によると、大湊工作部の隊員は大半が本県出身者で、軍人や一般徴用者、学徒動員の学生ら約3千人が主に艦船の修理を行っていた。現在も同様の業務を行っているという。

海自大湊基地内にあり、現役の工場として機能している旧大湊工作部第一工場

海自大湊基地内にあり、現役の工場として機能している旧大湊工作部第一工場

現在も6号倉庫として使われている海自大湊基地内の旧装塡所・下瀬火薬庫

現在も6号倉庫として使われている海自大湊基地内の旧装塡所・下瀬火薬庫


 れんが造り平屋の倉庫は現在、6号倉庫の名称で資材置き場として使われている。飛内氏の著書によると、02年に完成した旧装填(そうてん)所・下瀬(しもせ)火薬庫で、弾薬の組み立てや保管に使用された。戦後、窓枠は新しく取り換えられたが、戦時中と同じ姿を保っている。

 44年に完成した1万トンドックは全長221メートル、幅22~35メートル、深さ10メートル。巨大な渓谷を思わせる光景。旧海軍の1万トン級巡洋艦が入れるよう建設された。現在も全国唯一の海上自衛隊専用ドックとして、護衛艦の点検、整備を行っている。

全長221㍍ある巨大な1万トンドック

全長221㍍ある巨大な1万トンドック

現在は大湊ネブタの道具を収納しているという基地内の建物。一部にれんがが見える

現在は大湊ネブタの道具を収納しているという基地内の建物。一部にれんがが見える

海自大湊基地のフェンスの外側にあるコンクリート製の構造物

海自大湊基地のフェンスの外側にあるコンクリート製の構造物

基地のフェンスの外側にあるコンクリート製の構造物

基地のフェンスの外側にあるコンクリート製の構造物

海自官舎近くにあるコンクリート製の構造物

海自官舎近くにあるコンクリート製の構造物

水雷団開庁時に造られた小突堤

水雷団開庁時に造られた小突堤

舟艇の進水・修理に活用された旧伝馬船引揚場

舟艇の進水・修理に活用された旧伝馬船引揚場

 2025年夏に現地を訪ねた際、海自隊員が大湊ネブタのはやしを練習していた建物は戦時中、倉庫として使われていたとみられる。今はネブタの道具を入れているという。当時の窓枠も残り、壁には所々にれんがが見えた。小泉さんは「頑丈に補強されている」と語る。

 基地のフェンスを隔てた森には、戦後放置された高さ10メートルを超すコンクリート製の構造物があった。長い年月、風雪にさらされ、朽ちてきている。小泉さんは「当時の地図から推定すると官舎か寄宿舎跡ではないか」とみる。近くには、コンクリート製のトーチカか防空砲台跡のような構造物や水路跡も確認できた。

 基地内にはほかにも、水雷団開庁時に造られた係留用の小突堤、1908年に造られ、終戦まで20トン程度の舟艇の進水・修理に活用された伝馬船引揚場などもある。
 「大湊・下北空襲の記録」(青森空襲を記録する会発行)によると、終戦時、旧海軍大湊警備府には千島方面からの撤退部隊を含め、軍人、軍属合わせて約7万人がいたという。

下北地方の空襲 1945年の7月14、15日と8月9、10日に米軍機から攻撃を受けた。大湊は8月9、10日の空襲で、多くの被害や犠牲者が出た。9日は、大湊湾や芦崎湾に停泊していた機雷敷設艦「常磐」と駆逐艦「柳」が米軍機による攻撃を受け、合わせて125人が犠牲になり、300人以上が負傷した。常磐は搭載していた約600発の機雷を海中に投棄し、誘爆による住民被害を防いだという。常磐と柳に乗っていた戦死者は、大半が九州や四国の出身で、遺骨のほとんどが戦後に大湊上町の常楽寺境内に建立された慰霊碑の下に眠っている。

第2章

隧道、士官官舎…

堅強な造り

 むつ市内には、海上自衛隊大湊基地の外にも戦争遺構が多い。永下(ながした)集落に抜ける道路脇に「永下隧道(ずいどう)」と呼ばれる長さ190メートルのトンネルがある。2002年8月11日付の本紙では、旧海軍大湊工作部にいた人の証言として、戦況悪化で空襲が現実味を帯びる中、旧海軍の施設・物資の疎開先となり、艦艇修理用の工作機械が運び込まれ、工場にしていたことが紹介されている。

 隧道内には、コメ、缶詰、塩、ようかん、衣服などの物質が潤沢に集積されていたという。一方、飛内進氏の著書には、毒ガス弾がこの隧道に保管され、戦後、陸奥湾に投棄されたとの記載がある。飛内氏は02年当時の取材に「隧道の長さは延べ8キロに及んだ、という証言もある。当時は至る所、穴だらけだった」と語っている。
 戦後は生活道路として使われたが、1985年に閉鎖。現地を訪ねると、辺りは暗く、周辺は近づくのを拒むようにぬかるんでいた。小泉敦さんは「出入り口の周囲は石積みが施され、堅強な造りだ」と語る。

旧海軍の用水確保のために造られ、現在は市民の憩いの場となっている水源池公園

旧海軍の用水確保のために造られ、現在は市民の憩いの場となっている水源池公園

 桜の名所となっている水源池公園は市民になじみ深い。旧海軍の用水確保のため、大湊要港部水源地堰堤(えんてい)として10年に完成した。日本初のアーチ式石造ダムで、戦後は大湊町(現むつ市)に引き継がれ、76年まで水道施設として利用された。2009年に国の重要文化財に指定された。

 桜木町には、1915年に建てられ、1棟に2世帯が入居していた旧海軍士官の石造りの官舎がある。「北の防人(さきもり)大湊壱番館」は戦後、87年まで大湊高校の寮だった。「北の防人大湊弐番館」は整備され、2016年7月に学習活動・交流施設として開館。自由に見学できる。戦後は海自官舎として使われ、その後、13年まで市文化財収蔵庫だった。

旧海軍の士官官舎で、1987年まで大湊高校の寮だった「北の防人大湊壱番館」

旧海軍の士官官舎で、1987年まで大湊高校の寮だった「北の防人大湊壱番館」

戦時中は士官官舎として使用された「北の防人大湊弐番館」

戦時中は士官官舎として使用された「北の防人大湊弐番館」

「北の防人大湊弐番館」の内部

「北の防人大湊弐番館」の内部

 宇田町の海自官舎の近くには、忘れ去られたようにひっそりとトーチカのようなコンクリート製の構造物が残る。「大湊湾に向けて造られた防空砲台ではないか」と小泉さん。大湊から山側に行くと、海軍の標柱石やコンクリート製の構造物、機材の残骸も確認できた。むつ工業高校正門付近にも海軍の標柱石が残っている。
 戦時中、周辺には工作部の地下工場が計画され、多数のトンネルが完成したが、多くは戦後に破壊されたといい、痕跡を確認できなかった。
 大湊地区から離れた同市関根地区の山中には、大湊に関連しているとみられる遺構がある。地元の戦争遺構に詳しい消防職員の野澤陽太郎さん(53)の案内で現地を訪れると、コンクリート製の構造物が見えた。「何かは分からないが、敵の空中からの攻撃に対する施設ではないか」と野澤さん。小泉さんは「2カ所ある出入り口が特徴。分遣隊の施設ではないか」と語った。

山側にある海軍の標柱石

山側にある海軍の標柱石

山側の森で見つかった戦前のものとみられる機材の残骸

山側の森で見つかった戦前のものとみられる機材の残骸

むつ工業高校前にある「海軍省」と書かれた標柱石

むつ工業高校前にある「海軍省」と書かれた標柱石

第3章

当時を語る

爆弾ボカンボカン 戦艦から火

むつ市大湊 榊原政子さん(88

 むつ市大湊新町に住む榊原政子さん(88)は1946年まで、大湊上町(かみまち)に住んでいた。
 当時、自宅の空き部屋に10人ほどの若い兵士が下宿。1部屋に2、3人ずついたが、台所のある部屋には将校の夫婦がいた。戦後も夫婦との親交が続き、年賀状のやりとりをしたり、会いに来たりした。
 「船が着けば、人が通るところのないくらい、兵隊が道幅いっぱいに歩くのが玄関から見えた。父に家から出るなと言われていたので、玄関から見ていた。とにかく、にぎやかだった」
 戦況悪化後は敵の標的にならないよう煙を出せず、ご飯も炊けなかった。空襲警報が鳴れば生煮えの「めっこ飯」だった。
 国民学校に朝鮮人の兄弟がいた。「今思えば、ばかなことをしてしまったな、と思うが、朝鮮人の兄弟を差別して『朝鮮コ』ってはやし立てた。お兄ちゃんは我慢していたが、弟は歯向かってきた。悪いことをした」。戦後、兄弟はいつの間にかいなくなった。


 終戦直前、戦艦「常磐」が米軍機の攻撃を受けたのを見た。「自宅裏が海で、爆弾がボカンボカンと落ちてきて、船から火が上がった。船の先か後ろかは分からないが、傾いていった。今の戦争映画に出てくるような場面で、怖かった」
 娘に悲惨な場面を見せたくなかったのだろう。父に防空壕(ごう)に入るように言われた。「遺体は桟橋に流れ着き、当時の中学生や女学生が常楽寺に運んで、焼いたらしい」
 自宅に下宿していた兵士の中にも常磐に乗っていた人がいた。「亡くなった人もいたと思う。今も世界中で戦争があるでしょ。戦争をしても誰も幸せにならない」

青森県への朝鮮人の動員 戦時中の朝鮮人の強制労働について調査している静岡県浜松市の歴史研究者・竹内康人さん(68)によると、本県には労務と軍務で1万2千人以上の朝鮮人が動員され、このうち、鉱山や発電工事、鉄道工事への労務は約8千人。旧海軍大湊警備府の施設部には軍属として約4500人が連行され、約1400人が死亡した。
 青森県史では、約2万5千人の朝鮮人が県内に連行されたと記載されている。下北地方では多くの朝鮮人が施設建設などの過酷な労働を強いられた。永下や宇曽利川、願求院裏、旧大湊町役場裏など大湊周辺にも多くの寄宿舎(飯場=はんば)があったとされる。戦後の1945年8月22日、古里に帰る朝鮮人労働者やその家族、乗組員ら約3700人を乗せた浮島丸は釜山港に向けて大湊港を出港したが、同24日に舞鶴港で爆沈した。日本政府は犠牲者を朝鮮人524人、乗組員25人、原因は米軍の機雷に触れたと発表している。

戦艦「常磐」が米軍機の攻撃を受けた場面について説明する榊原さん

戦艦「常磐」が米軍機の攻撃を受けた場面について説明する榊原さん

終章

120年の歴史物語る遺構 数多く

取材同行 小泉敦さん  

 明治期からの旧海軍を引き継いだ現在の海自大湊基地の基地周辺には、約120年間の歴史を物語る多くの戦争遺構が残されている。
 大湊警備府は明治期に鎮守府が置かれた横須賀や呉、佐世保、舞鶴と同格で、1941年に「北の要塞」と位置付けられた。設備はコンクリート製やれんが、石造りの頑丈なものが多く、そのため、現在まで多くの構造物が残っているのであろう。
 2025年は戦後80年の節目だったが、次はこれをどのようにつなげていくのかが重要だ。戦争について考え、学び、語り継ぐ上で戦争遺構は貴重だが、老朽化し、危険であることを理由に、取り壊しが進む。写真や映像などで残す方法もあり、柔軟な対応が求められる。

紹介した遺構は許可なく立ち入りできない場所があります。

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