序 章
形を変え
惨禍今に伝える
米軍や自衛隊の基地がある太平洋沿岸の八戸市と三沢市は戦前、戦時中も、八戸が米軍の上陸想定地点となるなど、国防上重要な地域だった。現在も観光地などに形を変えながら残った遺構が戦時中の様子や戦争の惨禍を今に伝える。昨年から11月にかけ、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に現地を訪ね、当時の様子を探った。
第1章
蕪島内を貫通
機密の坑道
現在は工業都市、水産都市として知られる八戸地域は、旧陸軍が八戸飛行場の建設を始めた1939年以降、軍事施設が次々と設置された。11月中旬、種差観光協会長の柳沢卓美さん(77)の案内で、八戸市鮫地区から種差海岸にかけて、今も残る戦争遺構を案内してもらった。
ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている八戸市鮫町の蕪島は、現在は陸続きだが、かつて島だった。42年1月から2年間、旧海軍が基地建設のため、埋め立て工事を行った。作業員は秘密を守るためなのか、朝鮮人が多かったという。
八戸工業大学名誉教授の月永洋一氏と前八戸市博物館長の古里淳氏による2022年の著書「八戸地域の戦時遺構に関する研究-消えゆく戦時の記憶と遺構」によると、基地は太平洋戦争が始まった1941年以降、日本近海への敵潜水艦出没が相次いだことから建設されることになったとみられるという。実際、42年8、9月に八戸近海では7隻の船舶が潜水艦の攻撃を受け、沈没している。
蕪島には、44年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
戦時中の蕪島はどんな役割を果たしたのか。当時、蕪島一帯は軍事上の機密として、一般人が近づくことは許されなかったが、本紙の88年8月15日付夕刊に、旧海軍二等兵曹で43年から約1年間工事現場で勤務した地元の男性の証言が載せられている。
「あれ(坑道)は駆潜艇用爆雷の格納庫です。正式名称は『大湊防備隊9分隊付鮫爆雷補給所』のはず。八戸沖に米軍の潜水艦が出没するので造られたんです。それまで木造の倉庫があったんですが、爆撃に対して心もとないということだったんでしょう」
戦争末期、旧海軍は捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇とした。八戸にも4~5隻が常時配置され、対潜作戦に従事していた。格納壕(ごう)は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。
一方、前掲書では、旧海軍が魚雷発射用として掘削した坑道を拡張し、特攻艇「震洋(しんよう)」の施設として転用したと推察している。
坑道は戦後、68年の十勝沖地震の際、6カ所の大きな陥没ができたため、74年から埋め戻された。
現在、蕪島を訪ねると、当時の面影はほぼないが、「近くまで行けば、分かるものもある」と柳沢さん。石の塊が残っており、当時の写真と比較して、坑道があった場所は確認できた。
元海軍兵の証言を載せた本紙の1988年8月15日付夕刊
元海軍兵の証言を載せた本紙の1988年8月15日付夕刊
種差海岸の丘にあるくぼみ。爆弾が投下された跡という
種差海岸の丘にあるくぼみ。爆弾が投下された跡という
第2章
葦毛崎「要塞」
対空の電探基地
南に車を走らせ、葦毛崎展望台に向かった。鮫角灯台近くにある葦毛崎は断崖絶壁の海抜22メートルの場所にあり、石を積み上げていて、まるで要塞(ようさい)のよう。戦時中は電探基地(レーダー基地)があった。旧海軍が43年、石が積まれた基地を設置し、対空警戒のため2式1号電波探信儀を配備した。現在も円環状のコンクリート基礎がある。
風は強く冷たい。今では観光地となっている。小泉敦さんは「展望台から北も南も太平洋を見渡せる」と語る。
近くには高さ約5メートルの鉄筋コンクリートで造られた2本のマイルポストがある。1マイル(約1.6キロ)ごとに設置されたといい、船が2点間を通過する時間を計測して速度を計った。小泉さんは「敵の艦船の速度を測って、監視哨と連絡を取り合っていたのではないか」と話す。
前掲書では、先端に突起物があることから、電柱として利用された可能性に言及している。
柳沢さんの自宅近くの種差海岸の丘には、不自然にくぼんだ部分がある。柳沢さんは「昔の絵はがきだと、同じ場所がこんもりと盛り上がっている。長老からここに爆弾が落ちた場所だと聞いた。戦後80年たっても、そんなに変わらない」と説明してくれた。
第3章
陸自八戸駐屯地
空襲弾痕 生々しく
八戸市北部のかつて旧陸軍八戸飛行場があった陸上自衛隊八戸駐屯地内には、1945年7月14日の八戸空襲で米グラマン戦闘機の機銃掃射によって格納庫の鉄骨に撃ち込まれた弾痕が生々しく残っている。
同駐屯地の広報担当者によると、戦後もしばらくは格納庫として使われていたが、2003年の建て替えに伴い、入り口近くの防衛館前に移転したという。「連続して撃たれた跡。こうやって展示している場所は珍しい」と小泉敦さん。厚い鉄を貫いたいくつもの弾痕は、戦争の爪跡の大きさを物語る。
駐屯地内には今も、戦時中の建物も複数ある。かつては駐屯地内の倉庫から陸奥市川駅まで抜ける地下道もあり、現在も入り口の跡は残っているという。
第4章
三沢 戦前から
航空戦略拠点
三沢は戦前から「基地の町」だった。1939~45年、旧海軍航空隊の基地があった。39年9月から滑走路の建設工事が開始。三角形(トライアングル式)滑走路は当時としては珍しく、離着陸が同時にでき、横風にも柔軟に対応できるなど工夫が凝らされた。
地域の歴史に詳しい三沢市の郷土史研究者川村正さん(78)は「42年に三沢海軍航空隊が千葉県木更津で編成され、一式陸攻隊や予科練が来た」と説明する。戦争関連ではほかに、五川目(いつかわめ)と浜三沢、織笠に防空監視哨、浜三沢には航空燃料として利用しようとした「松根油」の生産所があった。
古間木駅(現三沢駅)から三沢基地を経由し、五川目まで結ぶ国鉄五川目線も存在した。五川目線は国内最大級の埋蔵量を誇る淋代海岸の砂鉄を運ぶために敷設されたが、途中から分岐して基地内の航空廠三沢分工場まで引き込み線でき、資材や軍用物資を運んだ。使用された蒸気機関車はC78とC58だったという。三沢基地までの引き込み線は戦後も米軍専用線路として2006年まで使われた。米軍三沢基地の外側には、この引き込み線路が今も残る。
三沢市の新町地区にある防空壕跡ではコンクリートが確認できる
三沢市の新町地区にある防空壕跡ではコンクリートが確認できる
計3回の三沢への空襲で破壊・焼失した施設もあったが、川村さんは「戦争遺構はむしろ、米軍基地建設と新しいまちづくりでほとんどがなくなった。昭和30年代に海軍士官の休息施設もなくなり、近年まで残っていた官舎も今はない」と話す。今は数少ない遺構として、基地近くの線路と新町地区の防空壕(ごう)跡が残る。
この防空壕跡を訪ねると、コンクリート部分が確認できる。川村さんは「戦時中は、210人余りの海軍魚雷調整班がいた。この辺は全て崖で、穴がいっぱいあり、兵士や航空魚雷を入れておくための防空壕だった」と解説した。 川村さんによると、基地内には、ほとんど遺構が残っていないという。
小泉敦さんによると、戦時中の基地建設に青森中、弘前中など多くの学徒が動員されたといい、小泉さんは「三沢周辺は一時、木ノ下飛行場も造られ、戦略拠点として注目されていた」と語った。
最終章 当時を語る
蕪島埋め立て
母が従事
八戸・嶋脇芳勝さん(82)
八戸市鮫町の嶋脇芳勝さん(82)は子どもの頃、上大久保地区出身の母親から蕪島を埋め立てた当時の話を聞いている。母親は雇われて埋め立て作業に従事。男性は現在の八戸市水産科学館マリエントがある場所付近からモッコ(運搬する道具)を担いで土砂を運び、トロッコで運んでいた。女性は地面をならしていたという。他の仕事より高い日当だった。
戦時中の記憶はないが、幼い時に大人から「米軍が上陸するのを想定していたが、戦闘は行われなかった」と聞いていた。
戦後、小学生の時によく蕪島の坑道に入った。大人からは「危ないから気をつけろ」と言われていたが、スリルに満ちた遊びだった。坑道は中でつながっていたが、戦時中の残骸などはなかったという。
B29の音
今も忘れない
五戸・髙奥惠さん(85)三沢出身
五戸町の髙奥惠(けい)さん(85)は三沢市北部の六川目地区出身。戦時中、父親が南方に出征していた。
1945年夏、明るい時間帯だった。B29爆撃機の襲撃が迫っていると聞き、兄と共に2キロほど歩いて、通称茶やこ山と呼ばれる林に逃げた。母親はおにぎりを持って後から来た。頭を上げると怒られるから、地面に伏せていた。
「地鳴りのような音がした。兄からは『日本の飛行機だ』と言われたが、日本の飛行機のブーンという音とは明らかに違った」。怖くて泣いた。兄からは「泣けば聞こえるから」と怒られた。「今でもB29の音は忘れない」
今も世界中で戦いが絶えない。「人間はどうしてこんなに愚かなのか。戦争はするもんじゃない。させるもんでもない」
※紹介した遺構は許可なく立ち入りできない場所があります。
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