第16話
東通村・六ケ所村の防空壕
序章
空襲に備え
山中にいくつも
第1章
大湊防衛へ
砲台、倉庫の役割
むつ市に近い東通村目名地区の山中に戦時中に造られた防空壕がある。同地区に住む男性(86)が現地まで案内してくれた。
男性は1945年夏の終戦前、母親に連れられ、畑に行き、ござを敷いて妹と座っていたところ、防空壕を造るための資材を運んでいる人たちを目撃した。母親から、作業をしているのは朝鮮人と兵士で、兵士たちが隠れるための防空壕を造っていると教えられた。
「スグリを食べていたから7月ぐらいだったと思う」。おやつとして準備していた煎(い)った豆を差し出したら、喜んでくれた。お礼として、木製のまくらをもらった。朝鮮人らが近くの畑のイモを掘って、生で食べている姿も見た。「相当腹が減っていたのだろう」
戦後、防空壕の崩落により陥没した目名地区の畑
戦後、防空壕の崩落により陥没した目名地区の畑
コンクリート製の防空壕の入り口は二つあり、奥の畑側に出口があった。男性自身は防空壕に入ったことはないが、母親に聞いた話では、中は厚い板で覆われていて穴同士がつながっていたという。戦後、物資不足の中、利用するために板が外され、中が崩落。畑の一部が陥没したという。
小泉敦さんと共に、男性が朝鮮人と兵士を目撃したという畑から、獣道をたどって防空壕を探した。途中に陥没していた場所や出口とみられる場所もあり、20分近く歩くとコンクリート製の入り口が見つかった。クマを警戒しながら、恐る恐る中をのぞくと中は土で埋まっていた。男性は「土砂が流れ込んだと思う」と話す。入り口の高さは当時、3メートルほどあり、出口までの長さは10メートル以上はあったとみられる。
「入り口近くは壁もコンクリートで覆われている。まるで八戸のトーチカのよう」と小泉敦さん。さらに少し歩くと、もう一つの防空壕も確認できた。長い年月が経過したためか、こちらは入り口のコンクリートが砕けていた。
目名地区の防空壕の内部
目名地区の防空壕の内部
目名地区はのどかな農村地帯。男性によると、現在森林となっている場所は戦時中、まだ原っぱで陸奥湾が見渡せたという。各家々に予科練(海軍飛行予科練習生)が班に分かれて、20人、大きい家だと30人ほどが宿泊したという。北東北の出身者が多かった。
男性の家にも宿泊。将校も泊まった。男性は「大湊空襲の際に『煙を見たい』と言ったら、私を抱き上げて双眼鏡で見せてくれた」。男性宅に泊まった北海道出身の当時16、17歳だった予科練の兵士は戦後も会いに来たり、年賀状をくれて交流が続いた。
男性によると、防空壕の入り口辺りに大湊方面に向けて2カ所に砲台もあった。ほかの集落にも砲台があったという。男性は「陸奥湾まで見渡せる集落に予科練が来て、大湊が攻撃された際に守るために砲台や防空壕を造ったのではないか」とみる。戦後、大砲は鉄くずとして売られ、今は跡形もなくなっている。
小泉さんも「男性の話と堅強なコンクリート造りの入り口、出口までの距離を考えると、大湊警備府を防衛するための砲台と資材倉庫の役割も担った地下壕ではないか」と語った。
第2章
空襲の残弾
帰途に投下か
六ケ所村・二又地区
二又地区の防空壕の内部
二又地区の防空壕の内部
戦時中、六ケ所村では6人が空襲で命を落とした。このうち、横浜町に近い二又地区では、2人が死亡し、13戸が焼失した。1945年8月9日午後、大湊空襲の直後、二又神社の上空から米軍艦載機2機ずつ3編成の計6機が上空を旋回しながら焼夷(しょうい)弾を投下したり、銃爆撃を加えたりした。
30軒ほどの同地区がなぜ狙われたのか。村立郷土館長の鈴木浩さん(68)は地区に放牧場があり、200頭ほどの馬がいたことを挙げ「戦闘機が大湊を爆撃した帰りに再び吹越烏帽子を目指し、集落近くの放牧場で動いていた馬と集落を見て、余っている弾を投下した」とみる。
戦前の陸軍軍馬補充部三本木支部があったころ、この辺りの馬は軍に買い上げられたという。
空襲を体験した同地区の秋戸吉郎さん(87)は「艦載機が群れになって高く飛んできた。日本の飛行機かアメリカの飛行機か分からなかった。大湊から戻る際に急降下してきた」と振り返る。実は三沢沖の空母から大湊を攻撃するために来た艦載機だった。「男女1人ずつが亡くなった。女性は肩を撃たれて、土間に倒れている姿を見た。戦争ほど怖いものはない」と語る。
地区の空襲について記録した資料には当時の証言として「動いていると撃たれるから木の陰、山や川に逃げた」と書かれている。
二又川近くの山中には防空壕が残る。戦時中は10ほどあったが、今は崩落した一つを含め、六つの防空壕が確認できる。上部は粘土層、下部は砂地。深さ3~4メートルで、数人が入ることができ、一部は穴同士がつながっている。今は動物のねぐらになっているという。
小泉敦さんは「山中にあって知られていなかったから、今も残っているのかもしれない」と推測する。
村立郷土館は戦後80年の今年、戦争に関する紙芝居を作って子どもたちに伝える活動を始めた。小泉さんは「戦争継承のモデルとして学ぶことが多い」と評価した。
二又地区の空襲について説明する秋戸さん
二又地区の空襲について説明する秋戸さん
二又地区の空襲をテーマにした紙芝居を見せる鈴木館長
二又地区の空襲をテーマにした紙芝居を見せる鈴木館長
太平洋に面した東通村小田野沢地区は同村の中では六ケ所村寄りにある集落。戦時中、約80世帯が住む漁師町の同地区は2度、空襲に見舞われた。同地区への空襲では7月14日に16軒、8月9日に3軒が焼けた。
地元の歴史に詳しい同地区の畑中寿亀男(すきお)さん(65)の協力を得て、空襲を経験した相内亀さん(90)と畑中廣美さん(95)から証言を得た。
小田野沢地区の空襲について振り返る相内さん
小田野沢地区の空襲について振り返る相内さん
相内さんは7月の空襲の前日について「飛行機がはるか上空を飛んでいて、父が『日本にはまだこんなに飛行機がいっぱいあるんだ』と話していたが、実は米軍の偵察だった」と振り返る。翌日、米艦載機がやってきて、サイレンが鳴り、母親に手を引かれ同地区の西側にある水源地へ逃げた。
「(艦載機が)大湊に向かう時には攻撃してこなかった。(当時の)お年寄りが『大湊に行って(三沢沖にいた)航空母艦に戻る際に余った弾をまいた』と言っていたが、それが正しい気がする」と話す。
警防団に所属していた廣美さんは7月の空襲について「大人が戦争に行ってここにいないので、15歳ぐらいの少年たちが消火した。家は木造でまさ屋根やかやぶき屋根で、風も強く火の勢いはすさまじかった」と証言。目の前で自宅が燃えている中、泣きながら手押しの消防ポンプで消火作業に当たったという。
同地区には、海岸寄りで起きた8月の空襲で戦闘機が放った機関砲の空の薬きょうが今も保管されている。2022年に89歳で亡くなった南川政義さんが持っていたもので、寿亀男さんによると、南川さんは生前、「斜面に掘った防空壕に米と鍋を運んでいたら、突然、戦闘機が海側から銃弾を撃ってきた。持ってきた鍋をかぶった。ここで死ぬと思った」と話していたという。
空の薬きょうには製造年とみられる「1944」の数字が確認できた。小泉敦さんは「戦時中に東通村沿岸部の集落が受けた空襲の実態を物語る貴重な証拠だ」と話した。
※紹介した遺構は許可なく立ち入りできない場所があります。
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