第15話
序章
湾警備、物流拠点
軍が注目
「天然の良港」平内町沿岸
            第1章
明治時代から
物流運搬で活況
 平内町に住む元小学校教諭で郷土史家の寺島満穂さん(89)の案内で、小泉敦さんとともに町内の小湊港を訪れた。 
 小湊港はハクチョウの渡来地として国の特別天然記念物に指定されている浅所海岸の北側に位置し、昔から天然の良港として知られた。明治時代から貨物運搬のために使われていた。 
 1891年の東北線小湊駅開業に先立つ89年、工事用資材の陸揚げ、運搬のため、同年に貨物駅として暫定開業された小湊駅と小湊港を結ぶ貨物線として線路が敷設された。 
 平内町史などによると、明治時代、小湊港は資材の陸揚げで活況を呈し、築港計画が推進されたが、この計画を知った当時の青森町が築港の運動を起こして青森への築港が決まった。 
 太平洋戦争末期、青函連絡船の補助港として、北海道と本州を結ぶ海上輸送と貨車航送を強化するため、再び注目を浴びる。1943年になると、国によって小湊築港が本格化。同年12月、水陸連絡設備工事の起工式が行われた。 
 44年に陸奥湾港湾運送株式会社が設立され、機帆船岸壁が未完成のうちに函館、室蘭から石炭を運んだ。45年の終戦後も国内の物資運送のため、工事は続けられた。46年7月、連絡船用岸壁が完成する前に仮設桟橋ができ、2隻のLST(米軍上陸用船)を改造した船が函館港間に就航。機帆船岸壁の一部も完成して北海道から石炭、魚類、雑貨の輸送が開始され、港はにぎわったという。 
 48年には第一貨車航送岸壁も完成し、青森─函館間に就航していた第六青函丸の着岸試験も行われたが、49年、運輸省が突然、小湊港の使用中止を発表。浅所桟橋駅も閉鎖され、港と小湊駅間の輸送も停止した。築港工事も完成を間近に中止となった。寺島さんによると、今は駅から小湊港への貨物専用列車の線路跡は道路になっているという。 
 現地には、ごつごつした石が混じったコンクリートで築港した跡があった。寺島さんは「貨物船だけが入った。小学3年の時だから、覚えている。結構活気があった。LSTを連絡船に直して、連絡船の荷物を貨車に積んでいた」と振り返る。 
 小泉さんは「陸奥湾内では戦時中、大湊港は軍港、青森港は商港、そして小湊港は工業港としての役割が期待されたと思われる。戦争がなければ、今の小湊港は違った姿となっていただろう」と語った。 
平内町茂浦の海岸から見た茂浦島
平内町茂浦の海岸から見た茂浦島
小湊港で小泉さん㊨に説明する寺島さん
小湊港で小泉さん㊨に説明する寺島さん
第2章
高さ30㍍巨岩
「立石」内に
火薬庫
              浅虫夏泊県立自然公園内の夏泊半島東側(平内町東滝)にある高さ30㍍余りの「立石(たていし)」と呼ばれる巨岩に寺島満穂さんと小泉敦さんとともに向かった。この立石には大きな穴があり、中は戦時中、火薬庫として使われていたという。
 立石の周辺は、中新世の岩が露出し、波の激しい浸食による切り立った崖が特異な海岸風景を見せる。 
 立石は海岸線に突出した奇岩で、岩上部のほこらには龍神が祭られている。地元では、昔、犬がカレイをくわえて岩下部の洞穴に迷い込み、数日後に青森市浪岡の王余魚沢(かれいざわ)で見つかったという言い伝えが残っている。2017年には巨岩にロッククライミング用のくさび「ハーケン」が10本ほど打ち込まれて問題になったことがあった。
 周囲に民家はない。坂の途中に車を止め、設置されていたロープを伝い、小泉さん、寺島さんと斜面を慎重に下りて行くと、奥行き20㍍ほど、高さは3㍍弱ほどの大きな穴があった。海からはこの場所が見えづらく、死角になっている。 
 中では多くのコウモリが飛び回っていたが、戦時中の遺物は残っていなかった。「発破をかけた形跡もなく、人工的に掘られた穴ではない。奥は鍾乳洞のよう。外より5度くらいは低い気がする」と小泉さん。寺島さんは「丸い石が多い。外から運んできた石ではないか」と話す。
  平凡社の「青森県の地名」によると、1945年、火薬庫として内部を排土整理した際、多量の貝殻と人骨、土器類が見つかった。土器は縄文時代のものだったという。 
 この場所は平内町に合併する前の旧小湊町にある。浜からは(むつ市の)釜臥山がよく見える。小泉さんは「大湊も小湊も地名に『湊』がある。陸奥湾を隔てて、何かしらの縁を感じる」と話す。 
奥行き20㍍ほどある立石の内部。戦時中は火薬庫として使われた
奥行き20㍍ほどある立石の内部。戦時中は火薬庫として使われた
立石から陸奥湾を隔てて望める釜臥山
立石から陸奥湾を隔てて望める釜臥山
第3章
軍が駐屯
鉄道敷設計画も
               平内町には、旧日本軍や戦争に関わる話が多い。防衛省防衛研究所の資料によると、陸軍が大正時代に山口地区を起点に茂浦地区までの鉄道敷設を計画した。また、昭和に入り、大湊要港部が夏泊半島の大島から採取した石材を航空場の資材にしていたという記録もある。 
 詳細は不明だが、戦時中、茂浦には小型潜水艦が配置され、特別攻撃基地として位置づけられたという記録もある。1945年6月1日から8月22日まで、渡辺忠雄技術大尉が率いる大湊警備府所属の海軍第577設営隊が茂浦で特攻基地設置の任務に就いていたという。
                      平内町史によると、本土決戦に備えるためか、大島に大湊の海軍の一部が駐屯し、小湊港湾付近、茂浦方面にも陸軍部隊が駐屯したという。浅所海岸近くの福島地区周辺の杉林にも応急の弾薬倉庫が建築された。 
 45年7月15日の空襲では死者3人、水上機4機炎上、汽船沈没などの被害があり、同年8月9、10両日の米グラマン艦載機による爆弾投下、機銃掃射でも被害を受け、東滝北方で汽船が沈没。茂浦島付近でも稚内─樺太間から転属となった青函連絡船・亜庭丸が沈没している。 
 小泉敦さんは「夏泊半島の西側に位置する茂浦島は青函連絡船航路の正面に当たる。戦時中に津軽海峡を通じて外敵が入港してきたとき、島の台地に砲台を築いて航路を防備したとしても不思議ではない。平内は戦時中、軍部の重要拠点だった」と語った。 
                  茂浦島での経験を克明に語る三浦さん
茂浦島での経験を克明に語る三浦さん
最終章
茂浦島で軍用道路を造った
元小学校教諭・三浦榮一さん(97)五戸在住
 五戸町在住で元小学校教諭の三浦榮一さん(97)は戦時中、横須賀海軍対潜学校を卒業後、1等水兵として海軍大湊警備府に連れて行かれ、平内町の茂浦(もうら)島で軍用道路を造る作業に従事した。 
 16歳で五戸町から日立製作所が設置している茨城県日立市の私立茨城青年学校に入学。茨城県の多賀工場で製品も作った。1944年になり、少年兵の募集に応募し、翌45年1月、神奈川県の横須賀海軍対潜学校に入学した。300人ほどがいた。
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                               海軍対潜学校  | 
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                               機雷や防潜網の敷設、爆雷投射、掃海術、対潜掃討術、水中探索術などについて教える旧海軍の教育機関。学校は、神奈川県横須賀市の久里浜港突端に置かれた。海軍機雷学校から1944年3月に改称した。弘前市出身で本県初の直木賞作家今官一(09~83年)も海軍対潜学校で新兵教育を受けている。  | 
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  6月15日に卒業式を終えると、東北育ちの少年兵30~40人が横須賀の久里浜の駅から列車に乗せられて大湊に向かった。「一切教えられないまま、どこに行くかも分からない。列車は、仙台で少し止まった以外は全く止まらなかった。真夜中だから、何も見えなかった。空襲を受けた様子を見せたくなかったんだろう」 
 翌朝に大湊に着いて、海岸を歩いて兵舎に行った。「夜明けだから、どこをどう歩いたのか分からない。その時は大湊だということも分からなかった。一切何も教えてくれない。みんな同年代だったが、口もきかなかった」 
 それから、船に乗った。「『モグラに行く』と誰かが言った記憶がある。もちろん、茂浦も知らない。何のことか分からなかった。茂浦島は建物もない無人島。船着き場はなく、島の端に下ろされた。傾斜地のやぶの中を頂上まで歩いた記憶がある。1㌔ぐらいかな」 
 高い場所は台地になっていた。「前を見たら、大湊と津軽半島がしっかり見えた。それで気づいた」 
 陸奥湾は全て大湊警備府の管轄だったという。そこから1カ月弱、大湊に滞在した。そのうちの20日ほど小さな船3隻30~35分ほどかけて茂浦島に通った。三浦さん以外に地元の人はいなかった。 
 「これをやれ、あれをやれという命令だけ。何も教えてくれなかった。だから、何をするのか誰も詳しく知っている人はいなかった。声も出せなかった」 
 兵長とみられる上役が図面を持っていて、全員が軍服ではなく、黄色い作業服を着た。「台地みたいなところがあって、実際に砲台を造ったかは分からないが、砲台を造る計画があるといううわさは聞いた」。青函航路の真正面に当たり、敵が入港した際に島の台地に砲台を築いて防備する計画だったとみられる。 
 三浦さんは小型車1台が通るほどの道路を造る作業をして、チェーンソーのような機械で木を切っていった。そこに石灰を敷いて固めた。 
 兵舎ではハンモックで寝た。食事はしっかり取れた。午後9時になればラッパが鳴り、11時に電気を全て消した。朝は午前6時に起床ラッパが鳴り、昼ご飯のおにぎりを準備した。兵舎には三浦さんの班のほか、100人以上いた。 
 7月中旬に横須賀に戻り、今度は防空壕(ごう)を掘った。「その頃は(戦争で)負けそうだと分かっていた。でも、口には一切出さなかった」。8月15日は久里浜にいた。「上役が落ち着かない様子で、負けたんだと思った。悔しさ、悲しさはなかった。まだ戦うつもりだった」。半月ほど残務整理をして、五戸町に戻ったのは9月1日だった。 
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