第14話

序章

全長100㍍

アーチ橋存在感

大間鉄道と震洋格納壕

(むつ市・風間浦村・大間町)  

 日本海と太平洋をつなぐ津軽海峡の沿岸は戦時中、敵の艦船侵入を防ぐ上で軍事的に重要な地域だった。旧陸軍によって築かれた大間要塞(ようさい)へ軍事物資や兵士を運ぶことを主な目的に、現在のむつ市と大間町を結ぶ大間鉄道が1937年に着工された。下北─大畑間は開通したが、大畑駅と大間町の間はトンネルや鉄道橋などの工事が進みながらも、物資不足などにより完成はかなわず、「幻の鉄道」や「未完の鉄道」と呼ばれる。一方、途中の風間浦村甲(かぶと)地区には特攻艇「震洋(しんよう)」の格納壕(ごう)跡が存在する。元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に現地に点々と残る遺構を訪ねた。

大間鉄道 国鉄大間線として第1工区の下北─大畑間の18キロが1937年に着工、39年に開通した。その後、41年の完成を目指し、第2工区の大畑駅と大間町の間の30キロが着工されたが、太平洋戦争開始によって完成が延長。工事は既に大畑から桑畑まで進んでいたが、43年12月、鉄道建設審議会が工事の中止を発令した。戦後一時再開の構想が浮上したが実現に至らなかった。下北─大畑間は大畑線として運行が続いたが、国鉄第1次廃止対象線の特定地方交通線となった。85年に下北交通が運営を継承したが、2001年に廃止された。

第1章

資材不足で中断

「幻の鉄道」

むつ市大畑町の二枚橋地区にあるアーチ橋(本社ドローンから撮影)

むつ市大畑町の二枚橋地区にあるアーチ橋(本社ドローンから撮影)

アーチ橋と小泉さん。左奥には津軽海峡が見える

アーチ橋と小泉さん。左奥には津軽海峡が見える

木野部峠近くにあるアーチ橋

木野部峠近くにあるアーチ橋

木野部峠にある大間鉄道の遺構とみられる構造物

木野部峠にある大間鉄道の遺構とみられる構造物

終着となるはずだった奥戸駅周辺を歩く野﨑さん㊧と小泉さん。奥には建設中の大間原発も見える

終着となるはずだった奥戸駅周辺を歩く野﨑さん㊧と小泉さん。奥には建設中の大間原発も見える

 むつ市から大間町まで車を走らせ、大間鉄道の痕跡を巡った。大正時代に計画され、大間要塞までの物資などの運搬という軍事的な要素もあり急ピッチで工事が進んだが、戦時中の資材不足などにより建設が中断された。現在は線路の路盤跡やトンネル、アーチ橋が残る。


 むつ市大畑町郊外の二枚橋地区に立ち寄った。全長100メートルほどのコンクリート製のアーチ橋が存在感を示す。近くで見ると、コンクリートの劣化も目立つ。アーチ橋の上にテレビアンテナを立てて、線を引き込んでいる家も多い。
 近くに住む杉本勲さん(84)は「労働者はほとんど朝鮮人で、工事中に落下した人が何人もいたと聞いている。祖母は戦後数年間、かわいそうだからと、イカを加工する小屋に住まわせていた」と語る。
 杉本さんによると、線路も既にできていて、近くには「釣屋浜」とみられる小さな駅も完成していた。戦後、近所の住民が自分たちの荷物を運ぶためにトロッコを走らせていたという。
 風間浦村に入る手前には建設工事の最大の難所とされ、カーブが連続する木野部(きのっぷ)峠がある。周辺には複数のアーチ橋が確認できた。峠に掘られた大間鉄道の木野部トンネルは戦後、バスや人が通った時期もあった。ただ、トンネル自体は見つけられなかった。

 同村に入り、温泉街の観光名所となっている下風呂地区のアーチ橋を訪れた。村が2005年、「鉄道アーチ橋メモリアルロード」として遊歩道を整備。足湯や駅名標も設置され、「幻の鉄道」を今に伝える。同地区の木村喜志雄さん(86)は「労働者がトロッコで荷物を運んでいるのを見たことがある。ジャガイモをごちそうした覚えもある」と振り返る。

上空から見た「鉄道アーチ橋メモリアルロード」(本社ドローンから撮影)

上空から見た「鉄道アーチ橋メモリアルロード」(本社ドローンから撮影)

風間浦村下風呂地区の観光名所となった「鉄道アーチ橋メモリアルロード」

風間浦村下風呂地区の観光名所となった「鉄道アーチ橋メモリアルロード」

 小泉敦さんによると、村内の桑畑地区にもかつて、トンネルがあったが、現在は跡が確認できない。
 大間町では、大間鉄道の痕跡は見当たらなかったが、町内を案内してくれた同町のNPO法人「北通りNPO」代表の野﨑信行さん(70)は「(風間浦村の)折戸まで用地を買収し、終着の奥戸の駅も完成していたと聞いている。現在の農免道路が線路になる計画だった」と説明してくれた。津軽海峡の流れが速い海流の関係で、奥戸駅から材木などを運び出す予定だったという。

 大間鉄道を巡っては、多くの朝鮮人が食事も寝床も満足に与えられない劣悪な環境の下で建設工事に従事した。逃げて捕まるとリンチが待っていた─という証言もある。
 終戦直後、朝鮮人労働者や家族らは旧海軍輸送艦「浮島丸」に乗って大湊港から釜山港に向かったが、京都府の舞鶴湾で爆発沈没し500人以上が死亡するという悲劇に見舞われた。
 小泉さんは「終戦が近くなると、空中戦が主流となり、陸から攻撃する大間要塞の役割がなくなったことも工事の中止と関係があるのではないか」と述べ、「負の歴史も含め、大間鉄道跡を保存して次世代に伝える方策が必要だ」と訴えた。

第2章

特攻艇「震洋」

隠す未完の穴

風間浦村の海岸 格納壕跡

風間浦村甲地区の海岸に残る震洋の格納壕跡

風間浦村甲地区の海岸に残る震洋の格納壕跡

 むつ市から大間町方面に向かう途中、風間浦村の入り口にある集落が甲(かぶと)だ。海岸にある特攻艇「震洋」の格納壕跡を探しに昨年から今年にかけ、3度訪れた。集落は地形がかぶとに似ていることから「甲」と名付けられたという。
 震洋は、旧海軍が太平洋戦争末期、「太平洋を震撼(しんかん)させる」との意味を込めて、船首に250キロもの爆薬を積んだ長さ約5メートルのベニヤ板で作った高速ボート。洞穴に潜み、上陸する敵艦に体当たりする。「下北の地域文化研究所」代表だった斎藤作治氏(故人)の調査によると、震洋は太平洋戦争末期に6200隻造られ、大湊海軍工作部は50隻を造ったという。

 格納壕は船を隠すための海洋の横穴だ。削りづらそうな固い岩盤。掘られたというより削られたという表現が適切な穴が、横に4カ所ある。満潮であっても穴まで水は届かなかった。
 案内してくれた元中学校教諭の佐藤ミドリさん(82)によると、工事が行われたのは太平洋戦争末期の1944~45年。佐藤さんは「掘っている途中だった。作業員から、大湊でも掘る計画があったという話を聞いたことがある。完成していたら、ここから出航して亡くなる人も出ただろう」と語った。
 小泉敦さんは「発破を仕掛ける場所も確認できた。本来は10~20メートル掘って、震洋を隠すつもりだったのだろう」と話す。格納壕近くに住む60代男性は「近所で話題になったことはない。訪ねてくる人もめったにいない」と話した。
 この場所では、「浮島丸事件」を題材にした映画「エイジアン・ブルー 浮島丸サコン」(1995年、堀川弘通監督)の撮影も行われた。

上空から見た震洋の格納壕跡(本社ドローンから撮影)

上空から見た震洋の格納壕跡(本社ドローンから撮影)

震洋の格納壕近くを歩く小泉さん

震洋の格納壕近くを歩く小泉さん

震洋の格納壕跡を眺める小泉さん

震洋の格納壕跡を眺める小泉さん

震洋の格納壕に掘られた小さな穴

震洋の格納壕に掘られた小さな穴

風間浦村甲地区の海岸で震洋について解説する佐藤さん

風間浦村甲地区の海岸で震洋について解説する佐藤さん

最終章

語り部たち

過酷な鉄道工事に従事した労働者の姿を目撃した能渡さん

過酷な鉄道工事に従事した労働者の姿を目撃した能渡さん

朝鮮人労働者 過酷な環境に

能渡俊悦さん(85)

 「大間鉄道を語り継ぐ会」事務局で風間浦村易国間地区に住む能渡俊悦(のととしえつ)さん(85)は「私が五つか六つのころ、桑畑まで線路ができていた。つるはしを持って、モッコ(土砂や石、建設資材などを運搬する道具)を担いでいる作業員がいた。朝鮮人だったと思う」と語る。
 能渡さんによると、当時は2班あって、そのうちの1班の現場監督は兵庫県出身で、後に本県の県議会議長や日本鮭鱒漁業組合連合会長も務めた古瀬兵次氏(1903~92年)だったという。

 能渡さんは「労働者はふらふらしていた。仕事がきつくて、食べ物も与えないのでしょうから。逃げれば馬で追ってきた」と証言。「労働者は弱れば、埋めると聞いたことがある。日本の兵隊でも食べさせてもらえなかった。骨と皮の兵隊ばかりで、炭を背負えないでいる姿や、疲れて沢水を飲んで休んでいる姿も見た。哀れだった」と語った。

格納壕作業員       トンネルが住居だった

坪克四郎さん(89)

風間浦村甲地区に住む坪克四郎(かつしろう)さん(89)は近くの海岸に掘られた震洋の格納壕について、旧海軍の兵士たちが発破によって穴を掘ったと証言する。
 ただ、集落の代表が兵士に聞いても、震洋ではなく、「高射砲をつける」という返事が返ってきた。
 現在は国道279号となっている道路の坂の脇に大間鉄道のトンネルがあり、そこが兵士たちの住居だった。食料や機材なども置かれていた。「40~50人いた。端から端まで板を敷いて、壁代わりに板で仕切って部屋を造り、部屋に戸がついていた」と振り返る。

 トンネル内でも作業をしていて、時折、「ボン、ボン」と鳴っていた。兵士たちは集落の人に「音が鳴っている際は近づかないで」と連絡していたという。
 戦後、兵士たちは姿を消し、「家が2、3軒建つほどだった」という多くの板は盗まれた。当時小学生だった坪さんはトンネル内で雷管(火薬を筒に詰めた火工品)を拾い、筆箱に入れて学校へ行った。コンパスで火薬を取っていたら爆発。左腕を失う大けがをした。
 戦争では特攻隊に志願した6歳上の兄を亡くした。19歳だった。空の箱に写真一枚だけ入って戻ってきたという。自らのけがと兄の戦死。坪さんは「戦争がなかったら、こんなことにならなかったのに」と語った。

震洋の格納壕を造る作業に従事した兵士たちについて説明する坪さん

震洋の格納壕を造る作業に従事した兵士たちについて説明する坪さん

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