第13話
序章
「軍都」として
城下町発展
旧陸軍第8師団と弘前市内

廃藩置県に伴って衰退していたかつての城下町・弘前市に1898年、陸軍第8師団司令部が創設され、同市は「軍都」として発展を遂げた。空襲を免れ、戦後も軍関係の建物が残ったが、年月を経て、老朽化や開発などにより、多くは取り壊された。弘前大学を中心とした高等教育機関が集積し、現在は「学都」と呼ばれる同市。7月上旬、市教育委員会の元教育部長で、役職定年後の現在は市公園緑地課に勤める成田正彦さん(61)の案内で、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に、市内に残る遺構を訪ねた。
陸軍第8師団 政府が富国強兵を掲げ、軍備増強を図る中、1896年9月の常備団隊配置改正の結果、98年に弘前に司令部が設置された。管区は青森、岩手、秋田、山形の4県と宮城県の栗原、登米、本吉の3郡。歩兵第4旅団(第5連隊、第31連隊)、歩兵第16旅団(第17連隊、第32連隊)、騎兵第8連隊、野砲兵第8連隊、工兵第8大隊、輜重兵(しちょうへい)第8大隊と弘前、盛岡、秋田、山形大隊司令部(後に連隊区)などの諸部隊を統括した。初代師団長は立見尚文中将。以来、歩兵第52連隊の編入・廃止や騎兵第3旅団の新設、歩兵第32連隊の他師団移管などを経て、終戦まで多くの戦争に参加した。

兵舎、厩舎 当時のまま
第1章~野砲兵第8連隊関連施設

1896年に編成された陸軍野砲兵第8連隊の関連施設は現在の弘前第三中学校や柴田学園高校付近にあった。
野砲兵第8連隊は敷地が約16万平方㍍の広さで、1909年の地図には兵舎、倉庫など28棟が記されている。37年、満州に派遣され、44年にはフィリピンに派遣されたが、ほぼ壊滅の状況で終戦を迎えた。かつての本紙取材で、鯵ケ沢町を中心に岩木山麓に広がっていた山田野演習場で毒ガス実験の中核を担ったことも分かっている。
かつて野砲兵第8連隊の正門だった弘前三中の裏門
かつて野砲兵第8連隊の正門だった弘前三中の裏門
弘前三中裏門前にある「野砲兵第八聯隊(れんたい)之跡」と書かれた石碑
弘前三中裏門前にある「野砲兵第八聯隊(れんたい)之跡」と書かれた石碑
現在は閉ざされ、ひっそりとたたずむ弘前三中裏門は、同連隊の正門だった。同校には、兵舎を利用した「第5校舎」と呼ばれる木造2階建ての校舎があった。中は暗く、柔道場や部活動の部室などとして使われていた。新校舎建設に伴い、1990年代末に解体された。
門の前には、「野砲兵第八聯隊(れんたい)之跡」と書かれた石碑が残る。
弘前三中の裏側にあるブナコの工場はかつて野砲兵第8連隊の厩舎(きゅうしゃ)だった。63年からブナコの工場として使われ、現在、普段は10人ほどが働いているという。
同社の女性従業員は「戦時中は馬小屋で、同じような建物が何棟かあったと聞いている。造りは当時のまま。よく見れば、土台にれんがが見える。地震の時も今の建物より丈夫だと感じる」と話す。
成田正彦さんによると、付近には、戦後も長く、大砲を保管する砲舎や、れんが造りで屋根付きの乗馬練習場「覆馬場(おおいばば)」もあったが、今はないという。
現在はブナコの工場として使われている野砲兵第8連隊の元厩舎
現在はブナコの工場として使われている野砲兵第8連隊の元厩舎
柴田学園高校には、旧兵舎1棟が残る。建造年代は分からないが、72年までは校舎として使用し、その後、高校の部室や東北女子大学(現柴田学園大学)のピアノのレッスン室として使われた。
木造2階建て。生徒たちのにぎやかな声が聞こえる校舎から裏側に回ると、同校教諭で、強豪として知られるスキー部の監督を務める前田洋海さん(43)が内部を案内してくれた。床は石畳で、訪れた日は真夏日だったが、ひんやりしている。
前田さんは「基本的には当時の姿をとどめている。基礎も壁も造りは丈夫。現在はソフトボール部の部室として使っていて、スキー関係のものも置いている。以前は校舎で黒板もあり、教室の面影が残っている。多くの人は学校の教室だったという認識で、兵舎だったと覚えている人は学校関係者を除き、少ないと思う」と話す。
前田さんによると、以前は将校集会所として使われていた建物は20年ほど前に解体されたという。
柴田学園高校敷地内にある旧兵舎の内部。石畳でひんやりとしている
柴田学園高校敷地内にある旧兵舎の内部。石畳でひんやりとしている
第2章 弘前市内にあった遺構を訪ねる



歩兵第52連隊・歩兵31連隊の米倉庫 頑丈れんが 手入れされ大事に
戦後、解体を免れた奉安殿はほとんどが神弘前市中野の弘前実業高校付近には戦前、陸軍の歩兵第52連隊、後に歩兵第31連隊が置かれた。同校近くにある吉川建設所有のれんが造りの倉庫は、両連隊の米の倉庫「糧秣(りょうまつ)室」として使われていた。
1936年に撮影された歩兵第31連隊の食糧倉庫。吉川建設所有のれんが倉庫に酷似している
1936年に撮影された歩兵第31連隊の食糧倉庫。吉川建設所有のれんが倉庫に酷似している
吉川建設会長の吉川功一さん(75)によると、倉庫は国からの払い下げの後、初代社長の祖父が1955年ごろに平賀町(現平川市)の所有者から購入した。付近にはかつて、将校たちの厚生施設があった。池や庭は手を加えられながら現在も残る。
陸軍歩兵第52連隊 1905年に編成され、台湾や朝鮮の警備、シベリア出兵への参加などを経て、25年、軍縮に伴い、廃止となった。その後、日中戦争時に再び軍旗を受け、満州でソ連(現ロシア)との国境警備に当たった。大鰐町出身で「本県スキーの父」として知られる油川貞策氏(1885~1951年)が所属していたことでも知られ、後に多くのスキー選手を輩出した「スキー連隊」だった。
陸軍歩兵第31連隊 1898年、現在の弘前市の桔梗野小学校とその周辺に設置された。日露戦争、シベリア出兵などで従軍。1944年のルソン島の戦いにも参加した。02年、青森歩兵第5隊と別ルートで極寒の八甲田越えを成し遂げたことでも知られる。35年には昭和天皇の弟に当たる秩父宮殿下が第3大隊長として着任している。20年近く前まで桔梗野に営門があったが、今は遺構はない。
唯一、新寺町から旭ケ丘方面に抜ける道路にだけ名残が残る。31連隊のために、営門までの道路を拡幅したため、新寺町方面から門までの道路が広くなり、その奥の旭ケ丘方面の道は狭くなっている。25年に中野にある現在の弘前実業高校付近に移駐した。
れんが造りの倉庫はいつ建てられたのかは分からないが、れんがは戦前のものとは思えないほど、きれいだ。吉川さんの祖父が購入後、倉庫の中に中二階などを造ったという。現在も会社の資材倉庫として使用。数年前にれんがを洗浄した。成田正彦さんは「かなりの年数がたっているが、手入れして、大事に使っていることが(現存している要因として)大きい」とみる。
吉川さんは75年、隣接する場所に自宅を建てて暮らしているが、れんが倉庫について「これからの時代、こういう建物はなかなか造れない。なくしたくない」と話す。
中を見せてもらった。木の梁(はり)などがむき出しになっているが、頑丈だ。「ある程度、人の動きがないと建物は傷んでしまう。建物も人間と同じく呼吸しているから、たまに開けたり、人が出入りしたりして、大事にすると残っていく」と語る。
市内には戦前、多くのれんがの建物が建てられ、現在も弘前れんが倉庫美術館などが残る。当時、弘前にれんがの工場があったという。吉川さんは「地震が少ない地域とはいえ、建物がまだ残っているということは、れんがの丈夫さを物語っている」と指摘した。 で拝んでいるという。
旧弘前偕行社 将校の社交場 装飾鮮やかに
弘前偕行社は将校の社交場、福利厚生施設として1898年に第8師団司令部の一室に開設され、一時、清水村富田の民家に移設されたが、1907年、現在の弘前市御幸町に移転新築した。
工事請負は明治の名匠・堀江佐吉氏で、長男彦三郎氏が棟梁(とうりょう)として現場を仕切った。ルネサンス様式を基調とした平屋の洋風建築で、内部は華やかで洗練された装飾が施されている。玄関には、第8師団を示す「蜂」の木製飾りもある。
建物内動画はこちら↓



成田正彦さんは「堀江佐吉が手がけた最後の建物で、完成を見ずに亡くなった。今造ると何年もかかる建物が、この時は6月の着工で11月に完成している。大工さんの力、佐吉の力に驚かされる。何よりも軍の施設が優先された時代だった」と説明する。
08年に当時皇太子だった後の大正天皇が宿泊。天皇として15年にも宿泊した。戦後は弘前女子厚生学院(後の弘前厚生学院)に払い下げられ、学校や保育園として利用された。2001年に国の重要文化財に指定。13年から修理が行われ、24年に市が旧弘前偕行社や大正天皇ゆかりの庭園「遑止園(こうしえん)」の土地を買い取り、建物は無償譲渡を受けた。一般公開されている。
成田さんは「明治期に弘前城の石垣が崩落したが、大演習で大正天皇が来られるということで、石垣を修理した経緯がある。軍は弘前の街並みとも関係があった。第8師団は弘前の近代化を支え、街も潤った側面があった」と語った。
第8師団司令部の前庭に1940年に建立された「大本営跡」の石碑。現在も弘前大学の敷地に残っている
第8師団司令部の前庭に1940年に建立された「大本営跡」の石碑。現在も弘前大学の敷地に残っている
第8師団司令部 戦後は弘大農学部の校舎
旧陸軍第8師団司令部は現在の弘前大学農学生命科学部付近にあった。木造土壁漆喰(しっくい)塗り2階建ての洋風建築物で、床面積約1290平方㍍。1897年に着工、98年9月に完成した。
棟梁(とうりょう)は堀江佐吉氏。付近には歩兵第4旅団司令部、憲兵隊もあった。現在は門柱と玄関前にあった前庭、そこに立つ「紀元2600年」と記されている1940年建立の「大本営跡」の石碑が残る。
戦後、弘前大学農学部(現弘大農学生命科学部)が内部を改造して使っていたが、67年に取り壊された。
師団長室の照明器具や司令部の棟札などは陸上自衛隊弘前駐屯地内の防衛館に保管されている。
第8師団関連では、師団が創設された1898年から、市がサイレンを鳴らすようになる1924年まで、大砲で正午の時報を知らせた「午砲台」の跡として、弘前市文京町の住宅街の一角に「午砲台之跡」の標柱が建てられている。
1924年まで、大砲で正午の時報を知らせた「午砲台」があった場所を示す標柱
1924年まで、大砲で正午の時報を知らせた「午砲台」があった場所を示す標柱
文京小学校南側には数棟の衛戍(えいじゅ)監獄もあった。成田正彦さんによると、十数年前までれんが造り平屋の窓に鉄格子が入った1棟が残っていたが、取り壊された。
現在の弘前総合医療センターには1897年創設の弘前衛戍病院(1935年に弘前陸軍病院と改称)があった。成田さんによると、近年まで一部れんが造りの手術室と薬品庫が残っていたが、2023年までに国立弘前病院から同センターに建て替えられた際、市教育委員会が記録保存をした上で、解体された。
将校官舎 おしゃれと風格
払い下げ後も大切に使われ、風格を保っている将校官舎
払い下げ後も大切に使われ、風格を保っている将校官舎
弘前偕行社の南側には、将校の官舎として建てられた建物が2棟残っている。戦後の1946年11月の資料には、11棟あったことが記載されている。
古さはあるが、洋風のおしゃれな部分と同時に風格も感じられる建物だ。このうちの1棟を訪ねると、所有者の女性(84)は突然の訪問にもかかわらず、快く応対してくれた。
女性によると、戦後、払い下げを受けた姉夫婦が住んでいて、その後、女性が住むようになって約50年が経過した。さくらまつりの時期になると、かつて住んでいた人が訪ねて来たり、若い人が「喫茶店ですか」と尋ねて来ることがあるという。
女性は「(通りの)一番奥の家だから一番偉い人が住んでいたと聞いている。よく白馬に乗って出勤していたようだ」と話す。
女性は堀江佐吉氏の孫と友人で、自宅に遊びに来た孫から「うちのじいさんが造った建物だから大事に使って」と言われたという。住宅を修繕する際にも気を配る。女性は「窓も直すときは昔のイメージを壊さないようにしている。自動車が壁にぶつかった際も、イメージを崩さないように直した」という。
女性は「息子も歴史的なものが好きなので、このまま残したいと言っている」と語った。
2016年まで店舗として使われた騎兵第8連隊「覆馬場」の外壁のモニュメント
2016年まで店舗として使われた騎兵第8連隊「覆馬場」の外壁のモニュメント
騎兵第8連隊「覆馬場」
弘前市松原東3丁目のコープあおもり松原店脇に、2016年まで店舗として使われていた旧陸軍騎兵第8連隊の屋根付き乗馬練習場「覆馬場(おおいばば)」の外壁などがモニュメントとして残っている。
同連隊は1896年に創設され、れんが造りの建物は翌97年に建てられたという。覆馬場では雨の日や雪の日に軍馬の訓練や乗馬の練習が行われた。
戦後は弘南バスが車庫として使用。1976年に当時の弘南生協「くみあいマーケット松原店」として営業を始め、2010年の合併によりコープあおもり松原店となった。老朽化や耐震の問題で16年に解体され、店舗は建て替えられた。現店舗も趣のある店構えだ。
成田正彦さんは「弘前にはれんがの建物が多いが、大火の後に土蔵など耐火の建物が造られるようになった」と説明した。
弘前公園内にあった旧兵器支廠の裏門
弘前公園内にあった旧兵器支廠の裏門
陸軍の兵器支廠
弘前公園三の丸にはかつて、兵器・弾薬などを保管・支給する陸軍の「兵器支廠(ししょう)」があり、今も遺構として、裏門と当時作られた通路が残っている。
1915年の地図で公園内に兵器支廠と火薬庫があったことが確認できる。
裏門は公園内の弘前市緑の相談所近くにあり、弘前中央高校側から堀を渡って緑の相談所側に入る通路は兵器支廠ができたことで設けられたという。
成田正彦さんは「元々は通路がなかったが、軍が三の丸一帯を使ってしまうので、公園の中に入れなくなるというので堀を埋めた」と説明する。
表の門は現在の弘前城植物園の入り口にあったが、現在はない。戦後、弘前大学教育学部が昭和40年代まで兵器支廠跡の建物を使用。れんがの建物もあったという。成田さんは裏門について「れんがと石を使った門で、当時の高さを保っている」と話した。
現在は店舗として使われている第8師団の旧師団長官舎
現在は店舗として使われている第8師団の旧師団長官舎
第8師団長官舎
弘前市役所脇にある旧陸軍第8師団長官舎は現在、スターバックス弘前公園前店として活用され、観光客らでにぎわっている。
建物は1917年建築。元々は3倍ほどの大きさだったという。戦後、米進駐軍が使用した時期があったが、51年、市が国から払い下げを受け、市長公舎となった。本庁舎建設に伴い、3分の2ほど解体され、後ろ側に曳(ひ)き家(や)された。2003年に国登録有形文化財となった。
その後も市役所裏にひっそり立っていたが、市が12~13年に曳き家と保存修理を実施。県道沿いの現在地に移り、「スターバックスコーヒージャパン」(本社東京都)に建物を貸して、同店が15年にオープンした。
1977年に建立された「輜重兵第八聯隊之址(あと)」の石碑
県内の戦死者を弔う「弘前忠霊塔」
弘前忠霊塔に隣接する陸軍墓地
旧陸軍墓地付近にある「陸軍用地」と書かれた境界石
第3章 戦時中の弘前の様子を聞く
「御用商人」の家 軍の秘匿情報も
第8師団長室の壁紙所有 野呂良明さん(81)
弘前市中野の野呂良明さん(81)は第8師団司令部の師団長室にあった壁紙の一部を所有している。
野呂家は長く洋服店を営み、戦時中は「松屋軍装店」として歩兵第31連隊、野砲兵第8連隊など弘前の部隊から「御用商人」としての指定を受け、門鑑によって出入りを認められていた。終戦間際には軍属として軍服を作っていた。
壁紙は父・庄次郎さん(1909~98年)が戦後、親しい自衛隊関係者からもらったという。野呂さんは「父から、仕立てを請け負っていた兵士が戦死したことなどを聞いたことがある」と話す。
庄次郎さんは戦時中の自らの経験を文書に残している。軍人は子どもたちの憧れの存在で、かすりの着物に手作りの木刀を差した子どもたちが長剣を差した将校の後に従って歩く光景も珍しくなかったという。
地元青年団から「弘前の各部隊が中国に出征する」と聞き、御用商人として率先して国旗を掲揚したエピソードも記載。同市出身の大尉から「貴様、軍が秘匿していることを一般大衆に漏らすのは不心得だ」とまくし立てられたという。
2カ月後、地元部隊の戦没者合同慰霊祭の際、今度はこの大尉に弔旗を立てなかったことをとがめられ、1カ月間の門鑑停止にされた。その後、この大尉は戦死。庄次郎さんは「存命なら、往時の話で談笑する機会もあったろうに。冥福を祈ることしかできない」としのんだ。

戦時中もデパート開いていた
小学1年時に市内移住 瀬川安祈子さん(89)
弘前市在住の瀬川安祈子(あきこ)さん(89)は西目屋村生まれで、小学1年の時に父が太平洋戦争で出征するのに合わせ、祖母とともに市内に引っ越してきた。
市内では、地下に防空壕(ごう)を掘っていたといい、青森空襲は、自らが通う第二大成国民学校(現大成小学校)の屋上から見たという。「父が太平洋戦争に行ったときはただただ寂しかった。戦争はいやだなぁと思っていた」と振り返る。
兵隊の姿を見たことはなかった。「かくは宮川デパートは開いていたが、昼も静かだった」。食べ物には困らなかったが、油は粗悪で体に発疹が出た。
新編弘前市史には、戦時中の市民の様子について書かれている。戦争が本格化するまでは映画や演劇、音楽など、文化的生活が華やかだったが、次第に「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」に代表される世相に。ただ、毎年開催される観桜会やねぷたを楽しむ市民は多くいた。観桜会は戦前の盛況ぶりは影を潜め、家族が弁当持参で花見を楽しむような光景だったという。
1909年に弘前公園本丸に建立され、弘前市の象徴的存在だった津軽為信像は44年、金属回収により撤去された。

~終わりに~
弘前は「戦跡巡礼」の最適地
取材同行・小泉敦さん
戦跡を訪ねて巡る「戦跡巡礼」という言葉がある。広島や長崎、沖縄だけでなく、全国各地にある戦争遺跡を学校の授業を通じて、あるいは、個人が意識を持って巡り、戦争を学び考えることだ。
弘前市内に残る旧陸軍第8師団関係の施設は、それにふさわしい場所になるのではないか。現在は「学都」となった市街地に点在する遺構に足を運ぶことで、かつての「軍都」の姿が想像できる。
遺構の中には、民有地や学校敷地内もあり、見学は簡単ではない。そこは当時の地図や写真と見比べることで、街の移り変わりを考えることができる。
また、記録保存された図面を参考にすることで、当時のたたずまいを確認することもできる。残されている遺構を訪ねて、弘前にとっての戦争を考えるきっかけにしてほしい。