第12話
序章
県都に焼夷弾
街の9割焦土
青森空襲と青森市内の戦争遺構


●青森空襲● 1945(昭和20)年7月28日夜、米軍のB29爆撃機62機(1機は投弾失敗)が鯵ケ沢方面から県内上空に入り、青森市に38本の焼夷(しょうい)弾を束ねた収束弾2186発(焼夷弾計約8万3千本)を投下し、市街地の9割が焦土と化した。第一復員省(旧陸軍省)の記録では1018人が犠牲になったとされ、約半数の名前はいまだに分かっていない。同月14、15日と8月10日、青函連絡船十数隻も空襲を受け、多くの死傷者を出した。
第1章
青森市は、青森空襲で多くの施設が焼かれた上、戦後80年もの年月が経過し、戦時中の姿をとどめる遺構は少なくなってしまったが、空襲の惨禍を耐えた建物などがわずかながら残る。
6~7月にかけ、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」庵主の今村修さん(83)に青森製氷や蓮心寺、青函連絡船可動橋などを、市民図書館歴史資料室の工藤大輔室長(57)に青森(油川)飛行場跡地や蓮華寺などを案内してもらい、元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)=五戸町=と共に現地を訪ねた。


青森製氷
本町3丁目の青森製氷の製氷工場は1920年に建てられ、今も現役で稼働している。かつては市内に多くの製氷工場があったが、今は2軒のみ。氷は大半が水産関係に使われているという。
空襲の際、木造の屋根は焼け落ちたが、壁部分は石造りで焼け残った。戦後、屋根を張り替えて、すぐに工場を稼働させたという。
焼夷(しょうい)弾の威力を示すように、今も外壁の石一面が黒焦げ、かつて空襲に遭った町であることが分かる。社長の佐々木平藏さん(79)は「下北から石を運んできて緻密に積み上げたと聞いている」と話す。今村さんは「この辺りは当時の繁華街で空襲の被害が大きかった」と語る。
青函連絡船可動橋
青森駅や青函連絡船メモリアルシップ「八甲田丸」近くにある青函連絡船の可動橋は1925年に落成、54年に改造された。貨車を連絡船に積み込む際に陸上のレールから船内のレールへと橋渡ししていた。
今村さんは「艦載機の攻撃があった45年8月10日は駅が狙われ、その際、可動橋が横に倒れた。艦載機は地上からパイロットの顔が見えるくらいの低空で飛んでいたと聞いた」と説明する。
可動橋は2007年、青函連絡船とともに日本機械学会の機械遺産となった。




蓮華寺
戦後、市役所の庁舎は、市公会堂に移されたが、その後、空襲で焼け残った本町1丁目の蓮華寺を借りた。蓮華寺は明治時代の1910年、5200戸以上の家屋が焼失した青森大火で焼けてしまったため、当時の住職が27年、火事に耐える建物を建てようと、周囲の反対を押し切り、幅約24メートル、奥行き約29メートルの鉄筋コンクリート製の本堂を総工費28万円(現在価格約5億円)をかけて建てた。
住職の角田堯淳(ぎょうじゅん)さん(70)によると、戦後、今は位牌(いはい)堂となっている庫裏で約3年間、役所業務が行われた。進駐軍が本堂でダンスホールやクリスマスパーティーをしたこともあり、県議会や市議会も開かれた。入院患者を預かったこともあるという。
本堂は何度かの修復を経て、2年後には築100年を迎える。角田さんは「(木製が主流の中、鉄筋コンクリート製の本堂を建てたのは)英断だった。当時は、『百年の計』として建設した」と感慨深げに述べた。
蓮心寺の大イチョウ
蓮華寺の近くにあり、本県に行幸された明治天皇が3度宿泊したという蓮心寺。空襲で本堂や庫裏が焼失したが、大イチョウや土蔵、鐘楼が被害を免れた。住職の本間義悦さん(71)は大イチョウについて「樹齢300年超と言われている。明治時代の大火で焼け、建て直した際に撮影した写真にも写っている」と話す。
近年は高圧電線に当たらないよう大イチョウの木を切り、形は良くないが、「元気に生きている」(本間さん)という。
空襲の際にも焼けなかった樹齢300年を超す蓮心寺の大イチョウ
空襲の際にも焼けなかった樹齢300年を超す蓮心寺の大イチョウ
第2章
市内の遺構を訪ね歩く
青森(油川)飛行場
地元の思い結実 記念碑に
1933年に完成した青森(油川)飛行場は約50ヘクタールの敷地に東西780メートル、南北700メートルの滑走区域が整備された。飛行場内には定期運航に向け、燃料貯蔵庫のほか、空港会社事務所、格納庫などが整備された。
37年、東京─札幌間の中継地として念願の運航が始まったが、戦時体制強化のため3年間で閉鎖。旧陸軍の爆撃・航法演習地となり、45年7月15日と8月10日、米軍の空襲を受けた。戦後、米軍に接収された後、飛行場自体が廃止された。
その後、宅地造成などが行われ、戦時中の面影はJR津軽線の踏切「飛行場道路踏切」と、市油川市民センターの敷地にある記念碑のみとなった。
記念碑は、市民団体が2004年に解体された飛行場格納庫の鉄柱と門標を移設したもの。鉄柱には、銃弾で貫通した穴や、欠けた部分が随所に生々しく刻まれ、被害の大きさを物語る。
案内してくれた市民図書館歴史資料室の工藤大輔室長は「油川の場合は、地元の人が残そうという意思が強かったから残ったのだと思う」と話した。
青森市油川市民センターの敷地内に移設された飛行場格納庫の鉄柱と門標。よく見ると、鉄柱には弾痕もある
青森市油川市民センターの敷地内に移設された飛行場格納庫の鉄柱と門標。よく見ると、鉄柱には弾痕もある
青森(油川)飛行場があったころの名残を残す「飛行場道路踏切」
青森(油川)飛行場があったころの名残を残す「飛行場道路踏切」
陸上自衛隊青森駐屯地内に移設された旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊本部兵舎
陸上自衛隊青森駐屯地内に移設された旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊本部兵舎
青森歩兵第5連隊本部の兵舎だったころと同じ姿を残す防衛館の階段
青森歩兵第5連隊本部の兵舎だったころと同じ姿を残す防衛館の階段
陸自青森駐屯地(旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊本部兵舎)
5連隊兵舎「防衛館」に
陸上自衛隊青森駐屯地内に、筒井地区の現在青森高校がある場所から移築された旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊本部兵舎が「防衛館」の名称で残っている。同連隊は1902年の八甲田雪中行軍遭難事故で知られる。
建物は1870年代に建築された。戦後、高校の教室などに使用されたが、老朽化が進み、1968年に約半分の大きさにして移築された。
建物の上部の菊の御紋は1892年、明治天皇から贈られた。戦後、進駐軍に破壊されるのを恐れ、幸畑の神社に隠されたという。
洋風建築で、当時使われた屋根瓦にも菊の御紋が使われている。建物内には、当時の階段が当時の姿のまま残り、八甲田雪中行軍遭難事故、第8師団、県内出身者の軍人などに関する資料の展示室もある。一般の人も見学でき、県外からの来訪者が多いという。
金峰神社に残る陸軍大佐・佐藤一郎氏が奉納した戦闘機のプロペラ
金峰神社に残る陸軍大佐・佐藤一郎氏が奉納した戦闘機のプロペラ
陸軍大佐(当時は大尉)の佐藤一郎氏の東奥日報社へのプロペラ寄贈を報じた1937年11月22日付の本紙
陸軍大佐(当時は大尉)の佐藤一郎氏の東奥日報社へのプロペラ寄贈を報じた1937年11月22日付の本紙
金峰神社のプロペラ
戦闘機のプロペラ現存
新城の金峰神社には、1941年に地元出身の陸軍大佐の佐藤一郎氏が奉納した戦闘機の木製プロペラが飾られている。
宮司の有馬勉さん(69)は「祖父から、(佐藤氏がプロペラを)仙台から持ってきたと聞いている。東奥日報にも寄付して、それは進駐軍に没収されたそうだ。うちは床下に土をかけて隠したので残った」と明かした。
37年11月22日付の本紙に佐藤氏の本社へのプロペラ寄付の記事が載っている。佐藤氏は立川─青森間1600キロを飛ぶ野外長距離飛行に参加したパイロット。「飛行機の操縦に或(あるい)は航空技術に若き血潮を躍らせてゐる将来の名パイロットのためにも」と、払い下げになった91式戦闘機のプロペラを寄付した。プロペラは約3メートルの長さで、クルミの木に金網を張り、特殊な塗料を施したものという。
同神社にあるプロペラも91式戦闘機のもので、34年3月に制作されたことが書かれている。
有馬さんは「かつては自衛隊員がよく見に来た。こういうものはなかなかないと思う」と話した。
カトリック本町教会のれんがの塀は空襲の爪痕を今も残す
カトリック本町教会のれんがの塀は空襲の爪痕を今も残す
カトリック本町教会のれんが塀
1897年、植物学者でもあるフランス生まれのフォーリー神父(1846~1915年)が建立したカトリック本町教会(当時は青森教会)。建物は空襲で焼失したものの、れんがの塀は焼け残った。経年劣化とは異なる焦げた黒い部分が空襲の爪痕として確認できる。
空襲の被害を免れた合浦公園の招魂堂は、払い下げを受け、諏訪神社の社殿となった
空襲の被害を免れた合浦公園の招魂堂は、払い下げを受け、諏訪神社の社殿となった
諏訪神社拝殿(合浦公園から移設した招魂堂)
栄町1丁目にある諏訪神社の拝殿は空襲で全焼したため、明治時代に合浦公園内に青森招魂社として建てられた招魂堂が1949年に市から有償で払い下げられ、諏訪神社の拝殿として移転した。現在も同神社の拝殿として使われている。
招魂堂ではかつて、戊辰戦争で亡くなった兵士を弔う招魂祭が行われていたという。
現在、県立郷土館となっている建物は空襲でも焼けなかった
現在、県立郷土館となっている建物は空襲でも焼けなかった
県立郷土館(旧青森銀行本店)
県立郷土館は1931年に第五十九銀行青森支店として建てられた。設計は明治の名匠・堀江佐吉の七男の幸治が手がけた。
鉄筋コンクリート2階建てで、本県を代表するモダニズム建築として知られる。43年から青森銀行本店として使われ、青森空襲の際にも焼失しなかったが、69年に青森銀行本店の移転に伴い、県に譲渡された。73年開館の県立郷土館のうち、焼け残った2階建ての旧館部分は2004年に国の登録有形文化財に指定された。
近くの日本勧業銀行青森支店、青湾貯蓄銀行も空襲で焼け残ったが、近年、取り壊された。
しあわせプラザの玄関部分は市公会堂と同じ姿で建て替えられた
しあわせプラザの玄関部分は市公会堂と同じ姿で建て替えられた
しあわせプラザ(旧市公会堂)
市公会堂は1901年に建てられた建物が老朽化と狭さのため、25年に増改築された。鉄筋コンクリート3階建てで、青森市では初めて水洗トイレが備えられた東北一の規模を誇る建物だった。芥川龍之介やヘレン・ケラーが講演した。
空襲でも焼け残り、戦後は市役所の仮庁舎となったが、米進駐軍に明け渡しを命じられ、進駐軍司令本部が置かれた。70年からは市スポーツ会館として利用された。96年に臨港道路拡幅に伴い、取り壊されたが、跡地に97年、市公会堂の玄関部分を再現した市福祉増進センター(しあわせプラザ)が完成した。
合浦公園近くの住宅街にひっそりと残る旧制青森中学校の正門
合浦公園近くの住宅街にひっそりと残る旧制青森中学校の正門
旧制青森中学校正門
現在、合浦公園内にある青森市営球場付近にかつてあった旧制青森中学校(現青森高校)の木造校舎は空襲で図書館を除いて焼失した。コンクリート製とみられる正門とカーブを描いている塀は被害を免れた。空襲の痕跡は見られず、現在も野球場が見える住宅街の一角に残っている。
1912年に同球場付近に移転した旧制青森中学校には、23年に太宰治も入学し、当時5年制だった中学を4年で卒業している。
基礎部分に「北支事変戦捷祈願記念」などと書かれている西田澤八幡宮の軍人像
基礎部分に「北支事変戦捷祈願記念」などと書かれている西田澤八幡宮の軍人像
西田澤八幡宮の軍人像
青森市西田沢地区の西田澤八幡宮には、台座部分に武士や兵士が戦場で勝利し、無事に帰還することを願う「武運長久」と、「北支事変戦捷(せんしょう)祈願記念」と書かれている高さ約3メートルの軍人像が残る。
北支事変は1937年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争に対して、日本側が当初使った呼び方で、その同事件の少し後に造られた石像とみられる。
終章
わたしが見た青森空襲
3畳ほどの防空壕で「怖い怖い」
青森空襲の経験者・濱田秀子さん
石江地区に住む濱田秀子さん(90)は幼少時、蜆(しじみ)貝町(現在の青柳)に住んでいた。1941年に莨(たばこ)町国民学校に入学、12月に太平洋戦争が始まった。
3、4年たつと空襲で授業も受けられなくなり、防空頭巾をかぶって、名前と住所、血液型が書かれた名札を着けるようになった。
小学3、4年の時、雲谷の畑で農作業を上級生のために、相馬町(現港町)から魚の肥料を背負って、軍歌を歌いながら行進して雲谷に向かった。「遠いとか大変だとは思わなかった」
空襲警報が鳴ると、堰(せき)に伏せて、飛行機が去るのを待った。1945年春に5歳上の兄を自宅に残して、父、母とともに造道地区に畑を借りて、そこに小屋を建てて住んだ。
45年の初夏、中心街の上空で米軍の飛行機が飛んでいた。「青函連絡船の様子を見ていたのだろう」
7月28日夜、青森空襲の時は3畳ほどの広さの防空壕(ごう)に入って母親と布団をかぶった。「怖い怖いと思っていたが、何も聞こえなかった。後で防空壕に焼夷弾が刺さっていたと聞いた」。兄は犬と海に入って難を逃れ、翌日に造道で再会した。
1週間ほどして、街に出たら、建物がほとんど焼け落ちていた。かつて見たにぎやかな街並みが無残な姿になり「悲しかった」。
終戦は学校で聞いた。「米軍が入ってきて、十字架を付けられて殺されるのだろうと思っていた」と振り返る。でも、その後「恥ずかしかったが、一度、米兵からチョコレートをもらったことがある。久しぶりに甘い物を食べた」。
5、6歳の頃に出征した長兄はインパール作戦で亡くなった。空襲で莨町国民学校の同級生の女の子の一家が自宅前の防空壕で焼け死んだと聞いた。同じクラスの女の子は一家で満州に行ったが、その後の消息は分かっていない。
「戦争は殺し合い。今も世界各地で起きている。戦争は嫌だし、二度と起こしてはいけない」
水面が燃え、川が赤く染まった
第5連隊近くに住んでいた千葉信孝さん
松森の駒込川近くに住む千葉信孝さん(89)は戦時中、現在の青森高校の場所にあった旧陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の兵舎から自宅近くの晴雄橋を通って、練兵場に向かう兵隊たちの姿をほぼ毎日見た。「午前5時だったと思う。兵舎からの起床ラッパの音で目が覚めた。午前8時ごろには数十人の兵士たちが隊列を組んでラッパを吹いて練兵場に向かって行進し、午後4時ごろになると帰った。時計代わりになっていた」。当時は桜川団地は田んぼで兵舎まで見渡せたという。
日曜日になると、兵士たちが川に洗濯に来て、砂の上で乾かした。背中に乗せてもらい一緒に泳いだこともあった。千葉さん宅で、母が塩ゆでした芋をごちそうすると、兵士たちは喜んで食べた。多くは岩手県出身だった。幼心に「負け戦だと感じていた」。その後、兵士たちはフィリピン・レイテ島に派遣され、ほぼ全滅したと聞いた。「かわいそうに思った」
戦況が悪化するにつれ、青森市内でも艦載機をよく目撃した。千葉さん自らも機銃掃射で撃たれそうになった経験がある。
1945年7月中旬には、柿の木に登って、野内の石油タンクの方を見ていたら、タンクが爆撃され煙が上がり、攻撃を避けるために右往左往する青函連絡船も見えた。同月28日の青森空襲も体験。千葉さん宅に焼夷弾は落ちなかったが、近所には落下した。「水面が燃えて、川が赤く染まった」
翌日、父に連れられ、栄町まで行くとほとんどの建物は焼け落ち、青森駅まで見渡せた。「幅の広い側溝は水を求めて逃げたのであろう遺体だらけ。遺体がトラックの荷台にどんどん積み上げられていった」
戦後、それまで兵舎として使っていた筒井中学校で学んだ。木造の校舎内には、まだたくさんの銃座が残っていた。
当時、戦争への嫌悪感はなかったが、「今になって思うと、戦争をしては絶対だめ」ときっぱり話した。
体験者の声 社会全体の記憶に
取材に同行 小泉敦さん
戦後80年となり、空襲を知る人が減る中、実態をどう伝えていったら良いのだろうか。
青森空襲の死者のうち約84%が防空壕で、ほかは道路、溝・地下水路。直撃であったという。文献や資料をひも解くことで、被害の一端を知ることはできるが、空襲に関わる戦争遺構を巡り、戦争体験者から生の声を聞き、衝撃を受けることが多かった。
それは戦争遺構や体験者・遺族の声に文献を突き合わせて初めて、青森空襲の実態に触れることができたということであろう。
遺構調査や聞き取りを通じて、戦争や空襲が身近であったことを再認識した。一面焼け野原になった市街地から、その後復興する中で取り壊されて少なくなったとはいえ、奇跡的に維持された爪痕は「戦争とは何か」を考えるヒントになると思う。
戦争体験を受け止める人が減っていることも課題。体験者一人一人の声を、社会全体の記憶として、次の世代につないでいくことが大切だと思う。
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