第11話
序章
「軍国主義教育」
象徴ひっそりと
奉安殿、奉置所 県内寺院や神社に

戦前から戦時中にかけて、学校敷地内には御真影(天皇、皇后両陛下の写真)と教育勅語を保管する奉安殿(ほうあんでん)が設置された。講堂などには、御真影や教育勅語を収めていた奉置所(ほうちしょ)も設けられた。子どもたちは登下校時など、奉安殿の前を通る際には最敬礼という深いお辞儀が義務付けられ、軍国主義教育の象徴とされた。戦後は一転、連合国軍総司令部(GHQ)の神道指令に基づき、撤去が命じられたが、一部は寺院や神社の境内などに移され、現在もひっそりと残る。
奉安殿 戦前に学校に下付された天皇・皇后の写真である御真影や教育勅語の謄本を丁重に保管するために特別に造られた施設。教育勅語は天皇の名で国民道徳の根源や教育の基本理念を示した。学校は御真影の保管場所に最大の注意を払い、教職員が学校に宿直して火災や盗難から守った。1930年代に入ると、校門の前に奉安殿がある学校では、登下校の際は最敬礼が強要され、子どもたちはその近くで遊ぶことも禁じられ、学校の「聖域」になった。戦後の45年12月にGHQから撤去が命ぜられた。翌46年1月から全国的に撤去作業が開始され、取り壊された。中には奉安殿を別の場所に移設して、別の目的で使われ、現在もその姿を残しているものもある。

心の支えから慰霊の場所へ
第1章~七戸神明宮(七戸)
5月、五戸町に住む元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)と共に、七戸町にある七戸神明宮を訪ねた。
同神明宮は1396年創建と伝わり、1881年に旧七戸城本丸の現在地へ移った。神明宮の奥側の公園となっている場所にかつて七戸小学校があり、校庭の真ん中に1919年に造られた奉安殿があった。
同神明宮の総代には軍人が多く、戦後、帰郷した軍人たちが「郷友会」を組織して、取り壊しの危機にひんしていた奉安殿を「郷友館」と名付けて境内に移動させたという。
同神明宮の松林和子宮司(73)は「日本が戦争に負けたから、マッカーサーが日本の精神的な支柱となっていたものを廃止した。移築したときの宮司は父の代だった。父も戦争に行った。今現在あるということは当時の人に、(奉安殿取り壊しの圧力に耐える)覚悟があったからだと思う」と振り返る。
郷友会のメンバーは毎年8月15日に忠魂碑の前で行う慰霊祭のテント設営などに協力しながら、郷友館を管理してきた。しかし、年月が過ぎ、メンバーが高齢化。代表者が亡くなり、郷友会は解散した。郷友館は同神明宮が管理するようになったという。
松林宮司は奉安殿について「戦時中は力になったり、心の支えになったりしたと思う。戦後は国のため、故郷を守るためにこの地域から出兵した人、その時代を精いっぱい生きてきた人たちを慰霊し、当時に思いをはせる場所になった」と位置付ける。
さらに、「選択肢がない時代の人たちのおかげで今がある。なくなれば、振り返る機会もなくなる。地域を守るために出征した軍人の御霊(みたま)をお祈りすることは続けてきたし、未来永劫(えいごう)続けていく。そのための貴重な宝物」と話す。
今は「懐かしい」と言って訪れるお年寄りもいるという。お盆が近づくと内部を掃除して、扉を開けている。
七戸神明宮にある旧奉安殿「郷友館」の内部。右側には教育勅語も残っている
七戸神明宮にある旧奉安殿「郷友館」の内部。右側には教育勅語も残っている
県内各地 旧奉安殿、奉置所を訪ねて
第2章






旧三浦牧場(五戸町)
戦後、解体を免れた奉安殿はほとんどが神社や寺院に移されたが、中には民間に引き取られたケースもあった。五戸町で2019年に廃業するまで三浦牧場を経営していた三浦一義さん(82)の牧場跡の一角には今も、主に東北地方で信仰されている馬の守護神の「蒼前様(そうぜんさま)」を祭る旧奉安殿の建物が残っている。
奉安殿は1941年、五戸小学校が「紀元2600年」記念事業で建設。扉の両側には、皇室の紋章として知られる菊の御紋がある。
三浦さんの祖父・源五郎さん(1892~1965年)が「ただ壊すのなら…」と奉安殿をもらい受け、台座は残したまま、夜中に馬車で地元建設業者に運んでもらい、五戸小から移動させたという。以来、父・国義さん(1915~88年)、三浦さんと3代にわたり旧奉安殿の建物を守ってきた。約30年前に屋根を修理してもらい、今の姿になった。
三浦さんは源五郎さんについて「小柄で怖い人。気骨のある人だった」と語る。全国の奉安殿は連合国軍総司令部(GHQ)の命令で取り壊されていったが、GHQを恐れなかった源五郎さんの人物像を物語る逸話がある。
三浦さんによると、競走馬生産者は土地を取られると経営できなくなるため、農地改革の対象から外してほしいと、競走馬牧場で組織する全国協会がGHQの本部まで陳情に行った際、北海道の生産者が事務官に「アイヌの土地を取って何を言うのか」と一蹴された。
陳情者一同が意気消沈していた中、源五郎さんが南部弁の甲高い声で「アメリカだってインディアンの土地を取ったろう」と返し、同行者が青ざめていたところ、米国人が大笑いしたという。以来、源五郎さんは「マッカーサーは怖くない」が口癖になった。
三浦さんは「40年ほど前までは5月1日に近所の同業者を呼んで蒼前様の祭りをしていた」と話した。三浦牧場は今も赤飯を炊いて身内だけで拝んでいるという。
大雷神社(つがる市)
つがる市柏玉水にある大雷(おおいかずち)神社には、旧柏第二小学校(1984年閉校)のれんが造りの奉安殿が移設され、台座部分は本殿の階段に使用されている。
閉校記念誌によると、児童はもちろん、住民も学校に出入りするときは奉安殿に最敬礼した。戦後、奉安殿を撤去しなければならなくなったが、当時の校長が撤去するにも金がかかり、もったいない─と地元住民に相談し、集落がもらい受けることになったという。
1946年春に集落総出で解体し、荷馬車で同神社境内まで運んだ。
5月、境内まで同行してくれた市教育委員会文化財課学芸員の小林和樹さん(31)はこの奉安殿に関して、83年発行の「青森県の事件五十五話」(二葉宏夫著)に書かれているもう一つの逸話を教えてくれた。
それによると、36年10月、御真影が草むらに捨てられ、それを拾った農家の人が当時の木造署に届け出た。木造署は署始まって以来の重大事件として捜査。同校の奉安殿から盗まれたことが分かり、現場の遺留品などから地元の少年数人を割り出した。容疑者の1人だった19歳の青年学校の生徒の自供によれば、数日前の授業中に校長から口汚く叱責(しっせき)され、校長を困らせせようと深夜に小学校の奉安殿に忍び込んで盗んだという。
富萢稲荷神社 (つがる市)
6月4日、小泉敦さんと共に、つがる市車力地区の富萢(とみやち)稲荷神社を訪ねた。
近くに住む佐々木秀男さん(87)宅の前にはかつて富萢小学校(後に別の場所に移動、2017年閉校)があり、校門脇に奉安殿があった。「真面目な人は登校時に敬礼をした。ただ、敬礼しなくても先生に怒られたことはなかった」と佐々木さん。戦後、奉安殿は移されたが、台座はしばらく残っていたという。
佐々木さんの案内で同神社に向かうと、社殿の右側に鳥居があり、その奥に小さな小屋のような建物が見え、「これだ、これ」と教えてくれた。
奉安殿は木造で高さ約3メートル、幅は約1メートル。戦後、学校から神社の奥側に移されたが、その後、現在の場所に据えられたという。奉安殿は修理され、下部を中心に真新しい板も見られた。
地元の富萢町内会の成田悦雄会長(79)によると、かつての奉安殿は地元で「(取り壊すのは)もったいない」とのことで移動され、現在は学問の神様「天神様」が祭られている。老朽化が進み、2年ほど前に修理した。
福民神社(黒石市)
黒石市牡丹平地区の福民会館には戦後、牡丹平小学校(2020年閉校)の奉安殿が移設された。奉安殿部分は同会館に併設している福民神社の本殿となっている。
奉安殿は1934年9月に建立された。総代代表の境裕康さん(71)によると、戦後、学校関係者と地元町内会の話し合いで、当時の町内会長が「貴重な建物で廃棄するのは惜しく、福民(集落)で氏子神社の創立に生かしたい」と述べ、関係者の了承を得て、町内会がもらい受けることになったという。
46年春、住民総出で路上で丸太を使った「ごろ引き運搬」で7日間かけて運んだ。境さんの祖父が伊勢神宮参拝の際に天照大神の御霊代(みたましろ)を受け、同年10月、本殿に遷座。住民の氏神として繁栄を祈る氏子神社となった。
神社はできたが、拝殿がなく、農業振興の目的で建設された作業場を解体・移転し、集会所の中に福民神社拝殿を設け、50年5月に落成した。
現在の会館は89年に完成したが、奉安殿だった建物は当時のまま残っている。一連の経緯をきちんと書き留めていたため、境さんは「年配の人はみんな当時の経緯を知っている。集落の外から奉安殿を訪ねてくる人は、まずいない」と話した。
旧木造中学校 講堂奉置所(つがる市)
5月中旬、小泉敦さんと共につがる市役所近くにある旧制木造中学校講堂を訪れ、同市教育委員会の小林和樹さんの案内で講堂内に入った。
講堂は市指定文化財となっており、復元された建物のため真新しいが、随所に装飾が施され、威厳を感じる。ステージの奥には式典の際に御真影や教育勅語を安置した観音扉の奉置所があった。
講堂は元々、1929年に現在の銀杏ケ丘公園がある場所に建てられた。旧制中学校時代には各種式典のほか、当時の県知事や将校が講話を行ったという。戦後は学制改革に伴い、木造高校となった後も使い続けられ、72年に高校が移転した後は当時の木造町に譲渡された。
その後は中央公民館の講堂へと転用。老朽化が進み、移築復元を行い、2020年に工事が完了した。今も市民ホールとして、市の式典や講演会、演奏会、サークルの発表会などに利用されている。
小林さんは「講堂として建物を活用しながら、受け継いでもらえれば」と話した。
大池神社内にある旧奉安殿の「英霊塔」
大池神社内にある旧奉安殿の「英霊塔」
大池神社(十和田市)
十和田市相坂の大池神社境内には、かつて近くの藤坂小学校校庭にあった奉安殿が「英霊塔」として残っている。
同神社の資料によると、奉安殿は1916年に新築された。戦後は旧藤坂村(現十和田市)の有志たちが奉安殿を残そうと決意。進駐軍のジープ型の車が巡回する中だったが、転がすために使う車輪型の「コロ」や人力によって、幅3メートル超、重さ1トン以上の奉安殿を3日かけて境内に運んだという。
奉安殿は現在、100余の遺影を安置している。
保福寺の旧境内にある黒石小学校の旧奉安殿
保福寺の旧境内にある黒石小学校の旧奉安殿
保福寺(黒石市)
黒石市の弘南鉄道黒石駅近くにある保福寺の旧境内には黒石小学校の奉安殿がひっそりとたたずむ。
同校90年史によると、奉安殿は1921年ごろに酒造業やかつての黒石町の町議などを務めた佐藤清十郎氏が寄贈した。戦後、保福寺に移されたことも書かれている。
同寺によると、今は奉安殿の扉を開く機会はないという。
鶴田町歴史文化伝承館(旧水元小学校)の体育館に残る奉置所
鶴田町歴史文化伝承館(旧水元小学校)の体育館に残る奉置所
鶴田町歴史文化伝承館 (旧水元小学校講堂奉置所)
2004年に閉校した水元小学校を活用した鶴田町歴史文化伝承館の体育館(講堂)のステージ奥には、御真影や教育勅語を飾った奉置所の扉がある。重い扉を開くと、教壇が収められていた。
建物の建築年は体育館が1907年、校舎本体が36年。ヒバ造りの木造校舎で、重厚な雰囲気。町文化財の指定を受けている。NHK大河ドラマ「いのち」のロケ現場にもなった。
大畑八幡宮境内にある旧奉安殿
大畑八幡宮境内にある旧奉安殿
大畑八幡宮(むつ市)
むつ市の大畑八幡宮には、「合祀(ごうし)者名簿奉安」と書かれている旧奉安殿がある。大畑町史などによると、奉安殿は大畑小学校にあり、1945年7月14日早朝の空襲の際には御真影と教育勅語を約100メートル東方の防空壕(ごう)に避難させた─と書かれている。
戦後の46年1月に御真影が返還された。同年6月6日に奉安殿の撤去作業が始まり、同20日に完了した。奉安殿は翌47年5月に同八幡宮内に移されたという。
海上自衛隊大湊弾薬整備補給所の敷地内にある大きな旧奉安殿
海上自衛隊大湊弾薬整備補給所の敷地内にある大きな旧奉安殿
海自大湊弾薬整備補給所(むつ市)
海上自衛隊大湊弾薬整備補給所の敷地内に大きな旧奉安殿が残っている。旧奉安殿はコンクリート製で、高さは約1㍍の土台部分を含めると4㍍を超える。
旧海軍の資料には、第41航空廠(しょう)大湊支廠に広さ約5平方㍍の「奉安所」があったことが記されており、旧奉安殿がこの建物とみられる。近くには古い消火栓が残っている。
同補給所によると、現在は旧奉安殿と古い消火栓は使用されておらず、旧奉安殿の扉が開けられることもないという。
板柳町立郷土資料館で展示されている御真影と教育勅語の「保存箱」
板柳町立郷土資料館で展示されている御真影と教育勅語の「保存箱」
板柳町立郷土資料館にある御真影と教育勅語を入れた箱
板柳町立郷土資料館には、戦時中に沿川第二小学校(2001年閉校)で御真影と教育勅語を収めた保存箱が展示されている。保存箱は漆塗りの木製で、奉安殿に安置していたといい、校長のみが触ることができた。明治時代から終戦時まで使われ、空襲などの災害時に御真影を持ち出して守るため、リュックサックのように背負えるようになっていた。
西田澤八幡宮の本殿に使われている旧奉安殿
西田澤八幡宮の本殿に使われている旧奉安殿
西田澤八幡宮 (青森市)
青森市西田沢地区にある西田澤八幡宮の本殿には、西田沢小学校(2020年閉校)の奉安殿が使われている。
本殿の裏側を見ると「昭和10年11月吉日 西田澤小学校 教育後援會 同窓会」と刻まれている。近くに住む田村千代藤さん(76)は「奉安殿は戦後に解体するのも忍びないと住民総出で八幡宮に移したと聞いている。物心がついたときには既に奉安殿が本殿として使われていた」と語った。
奉安殿に敬礼 気持ち引き締まった
第3章~戦時中の思い出 鈴木シゲさん(十和田市在住)に聞く
七戸町出身で、十和田市在住の鈴木シゲさん(93)は戦時中、七戸国民学校に登校する際には必ず、二宮尊徳の銅像と奉安殿に敬礼した。
「学校で覚えさせられ『朕惟(ちんおも)フニ我カ(が)皇祖皇宗(こうそこうそう)』と教育勅語を唱えていた。強制というよりは自然にみんなで並んで敬礼した。冬に上半身裸で走らせるほど厳しい校長で、敬礼しないと当然叱られた」。戦後は、奉安殿で敬礼し教育勅語を唱えることはなくなった。なぜか分からないが、君が代は歌った。
「奉安殿の前に行くと緊張して気持ちが引き締まった。扉が開いているときも閉じているときもあった」
戦時中は来る日も来る日も勤労奉仕と食料増産。授業があるのは雨と雪の日だけだった。「『ほしがりません、勝つまでは』『ぜいたくは敵だ』と毎日のように聞いた。東京方面から親戚がないまま疎開してきた人たちは着物を持ってきて、米をもらおうとした。母が気の毒がって、『着物はいらない』と一升枡でただであげていた。そういう時代だった」
終戦は勤労奉仕でトウモロコシの草取りをしていた際、国語の先生から「『戦争が終わった。日本は負けた』と聞いたとき、私は鎌を持ちながら、ほっとしたのを覚えている」
父親の弟が沖縄で戦死している。「家族に面会に来た翌月に亡くなった。20歳で。戻ってきたのは紙1枚だけ。祖母が泣いていたのを覚えている。7人兄弟の一番の末っ子だからね。泣いて、泣いて。あれはつらかった。戦争は二度と嫌だ」

~終わりに~
「保存の在り方検討必要」小泉敦さん
現存する奉安殿は当時の教育の在り方を示すもの、軍国主義教育を物語る戦争遺構として位置付けて、保存していくことが大切だ。
戦後、奉安殿を残していたことが発覚すれば相当な処分が予想されるだけに、今も残っている地域は、結束が強かったと思われる。
奉安殿を残したのは、軍国主義への懐古や郷愁、抵抗ではなく、これまで神聖なものとして扱ってきたものを壊すのはもったいない、自分たちが造ったものを大切にしたいという住民の愛着や、戦死者への悼みと平和への遺族の強い気持ちがあったと思う。
戦死者の遺族が少なくなる中、戦争の犠牲者に思いを巡らす施設の一つとして、保存の在り方を考えていかなければならない。
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