第10話

序章

採草地

本土決戦に備え

三本木秘匿飛行場

(十和田市)

●秘匿飛行場● 太平洋戦争末期、硫黄島が米軍に奪われ、旧陸軍が本土決戦に備えて整備した。航空機生産施設への米軍の激しい攻撃で生産能力が低下し、空襲により既設の飛行場は破壊されるという予測もあったため、現有航空機を守り、分散・秘匿させる目的で飛行場そのものを秘匿した。牧場や演習場、山林を利用して造った。東北地方の旧陸軍の秘匿飛行場は本県の三本木(十和田市)のほか、六郷(秋田県)金ケ崎(岩手県)水澤(同)王城寺(宮城県)棚倉(福島県)。

木を伐採、飛行機隠していた

第1章

 昨年から今年にかけて3回、五戸町に住む元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)とともに、戦時中に三本木秘匿飛行場があった十和田市八斗沢地区を訪ねた。
 このうち、今年4月13日には、同地区出身で市内に住む畠山礼子さん(87)に同行してもらった。
 「この辺は80年ですっかり変わった」と畠山さん。グループホームひばり野近くに車を止めると、「この辺は軍馬の採草地だった。戦後間もなくだったと思うが、近所の子どもたちから、ここの周辺で『飛行機を燃やしている』と聞いて見に行った」と遠い記憶をよみがえらせる。

 「集落の大人に『こっちに来るな』と言われ、あまり近寄らないようにしたが、火も煙も上がって油臭かった。大きな飛行機を1機燃やしていて、次の日も燃えていたと聞いた」
 小泉さん、畠山さんを車に乗せ、滑走路があったとされる畑地に向かった。途中に携帯電話用の大きな電波塔が立っている。畠山さんは「(旧陸軍は)この辺に飛行機を隠していた。地区に秘匿飛行場があったことも、滑走路の存在も知らなかったので、怖かった」と振り返った。

 周辺はかつて森で、木を伐採して飛行機を隠していたという。近くで農作業をしていた人によると、最近までは防風林が植えられていた。
 辺りの風景が一変した中、畠山さんによると、畑地に向かう砂利道は当時と変わらぬ姿をとどめているという。

畠山さん㊨が三沢の空襲を見たという高台。前方に飛行機から爆弾が落とされるのを見たという

畠山さん㊨が三沢の空襲を見たという高台。前方に飛行機から爆弾が落とされるのを見たという

 畠山さんが「戦車を見た」という通りを抜け、生家があった高台まで車を走らせた。すると、畠山さんが三沢で空襲があった時のことを教えてくれた。
 「三沢の飛行場が見渡せる場所だった。米軍の飛行機が爆弾を落とす様子は、まるで多数のトンボが飛んでいるように見えた。年配者は山に隠れた。まだ幼かった弟に向かって『飛行機に聞こえて、見つかるから泣くな』と怒った記憶がある。今考えると聞こえやしないのに」
 小泉さんは「滑走路を造るには適した土地だったのだろう」と述べた上で、「幼い頃の記憶を忘れずに覚えている方の生々しい証言を聞くと、ここに飛行場があったと実感する。地域の人たちの記憶や、少ない資料をつなぎ合わせることで、戦争の姿が浮かんでくる。多くの証言を集めて戦争の記憶を残すことは大切だと思う」と語った。

秘匿飛行場があったとされる場所。今は畑地となっている

秘匿飛行場があったとされる場所。今は畑地となっている

「本土航空作戦記録」に書かれている秘匿飛行場に関する記述。左から5行目に「三本木」の文字が見える(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

「本土航空作戦記録」に書かれている秘匿飛行場に関する記述。左から5行目に「三本木」の文字が見える(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

「本土航空作戦記録」に書かれている秘匿飛行場整備要領(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

「本土航空作戦記録」に書かれている秘匿飛行場整備要領(国立国会図書館ウェブサイトから転載)

滑走路なく、ならしただけ 三十数機待機

第2章

 現在、ほぼ遺構が残っていない三本木秘匿飛行場。八斗沢秘匿飛行場、三沢第二飛行場などとも呼ばれる。当時を記録した史料、証言から飛行場の姿が浮かび上がった。
 旧陸軍の資料によると、元御料地で、その後、軍馬補充部三本木支部の採草地になったという。

 十和田市史によると、採草地は約30㌶あり、外地に派遣される150人余りの港湾設定部隊が輸送船不足で派遣できないため、ここで食料準備の耕作をし、傍らで飛行場を造った。
 ほかに50人余りの朝鮮人や付近の住民、県立三本木農業学校(後に三本木農業高校、現三本木農業恵拓高校)の生徒が1年にわたって勤労奉仕をした。ビルマ(現ミャンマー)方面から三十数機の双発戦闘機が到着し、待機していた。あと1カ月で完成という時に終戦を迎えたが、故障の2機は直ちに焼却された─と記されている。
 古老の証言として、終戦時に10機前後の陸軍機がいたことや、飛行場には滑走路もなく草刈り場をならしただけの原始的なものだったことなども紹介している。
 五戸町在住の手倉森斉さん(85)は本紙取材に「三農在学中、先生から八斗沢に戦時中は飛行場があったと聞いた」と話す。
 1996年8月15日号の「広報とわだ」は、三本木秘匿飛行場について特集し、当時を知る人の証言がつづられている。

戦時中の大豆のお礼?「びっくりした」

立崎石男さん(十和田)78歳

終章

 三本木秘匿飛行場跡の近くに住む立崎石男さん(78)は「飛行機が来たという話は聞いている。近年亡くなった六、七つ年上の先輩が『飛行機を見るために、(八斗沢地区の)坂を走った』という話をしていた」と振り返る。
 物心のついた時、既に飛行場はなく、滑走路の跡地とみられる場所は真っ平。草だらけの野原で、飛行場だったことを示す痕跡はなかったという。現地はその後、水田になり、減反政策に伴い、畑となった。地元の集まりで話題に上ることは「ほとんどない」。
 立崎さんは稲作農家だったが、1980年に凶作に見舞われ、初めて静岡県のヤマハ発動機磐田工場へ出稼ぎに行った。東京の会社から派遣されて、同じ寮にいた年配の男性に「どこから来たの」と聞かれた。「青森県」と言うと、やたらと詳しく聞きたがった。
 最後に「八斗沢」と答えると「懐かしいな。大変世話になった」。予想外の反応に「びっくりした」。実は男性は三本木秘匿飛行場で整備士をしていたという。


 話を聞くと、空腹で苦しい生活を送っていた男性が、同じく戦時中で苦しい生活を送っていたのにもかかわらず、近所の人が大豆を恵んでくれたという。「みんなが寝静まってから、大豆をいって隠れて食べた」と話してくれた。
 それ以上深く聞くことはなかったが、後日、男性は立崎さんに(観光で)渥美半島(愛知県)を巡ってもらおうと、車を用意してくれた。立崎さんは「同じ八斗沢の住民ということで、大豆のお礼だったのだろう」と振り返った。

三本木秘匿飛行場で整備士をしていた男性について語る立崎さん

三本木秘匿飛行場で整備士をしていた男性について語る立崎さん

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