第8話
序章
海峡防衛
重責担う拠点
大間要塞と桑畑防備衛所
(大間町・風間浦村)




対岸に北海道がくっきりと見える下北半島北側の海岸線に、多くの戦争遺構が今も残る。
戦時中、津軽海峡への敵艦船侵入を防ぐため、大間町と風間浦村に旧陸軍によって築かれた「大間要塞(ようさい)」。砲台や弾薬庫、観測所、兵舎などさまざまな施設が整備された。
同村桑畑地区には、旧海軍大湊警備府の桑畑防備衛所が設けられた。当時を知る人たちに話を聞くと、津軽海峡を防衛する重要性をあらためて認識できた。
大間要塞 津軽海峡の防衛を担う津軽要塞の一部。津軽要塞司令部が1924(大正13)年に要塞設置を決定し、28、29年ごろに完成したとされる。兵力は約200人。現在の大間高校東側に、巡洋艦「伊吹」に搭載されていた30センチ砲1基(2門)が設置された。要塞には兵舎、予備兵器や移動電灯の格納庫、火薬置き場、照光座、電灯発電所、折戸観測所など32の軍事施設があったとされる。空襲で要塞が被害を受けることはなかったが、45年7月14日、大間町沖で海軍特務艦「豊国丸(ほうこくまる)」が米軍機の攻撃を受け沈没、135人が戦死している。
深いやぶの中に砲台跡
第1章~大間要塞をゆく
昨年6月、大間高校付近で、大間町のNPO法人「北通りNPO」代表の野﨑信行さん(69)と合流し、五戸町に住む元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(65)とともに、大間要塞を案内してもらった。
かつて大間要塞と呼ばれた同校周辺は海岸まで約500~600メートルほどの場所にあり、付近には現在、病院や消防、警察などが集積している。まず、同校東側にある砲台跡を訪れた。深いやぶに覆われ、訪れる人もほとんどいないのだろう。砲台を紹介する標柱は野﨑さんら町民有志が立てたが、朽ちてきている。
砲台跡はドーム状で、高さ約5メートル、幅約10メートル、奥行き約15メートル。野﨑さんが聞いた話によると、砲台は戦車で引っ張ってきて、据えたとみられるという。野﨑さんは「町が周辺の草を刈るなどして、砲台跡が分かるようにしてくれればいいのだが…。今後、取り壊されてしまう可能性もある」と危惧する。
砲台は海峡に敵艦が現れた場合、陸から迎撃するという日露戦争の教訓に基づいて整備されたが、航空機による攻撃が主流になり、砲台からは一発も砲撃することはなかった。
砲台には地下道があったが、入り口はコンクリートでふさがれていた。昭和30(1955)~40年代、地下道にし尿が流し込まれ、廃棄場所として利用されたという。
砲台跡から約200メートル歩くと、町立うみの子保育園の敷地内に弾薬庫として使われたとみられるコンクリート造りの建物がある。小泉さんは「目立たない色で頑丈に建てられた建物だ」と語った。







砲台跡から車で数百メートル下った町有地に幅、奥行きとも5~6メートルの防御陣地「トーチカ」があった。
野﨑さんは「今は木が茂っているが、昔はなかった。海まで見えて、敵が上陸してきたら撃つためのものだったと思う」と話す。
狭い入り口から中に入ると、コウモリの巣と化していた。中には窓(銃口)があり、コンクリート製の銃座もあった。





大間町との境界に近い風間浦村蛇浦地区で車を走らせ、道路から歩いて少し入ると、「電灯発電所」の入り口まで来た。
頑丈に造られたコンクリート製で、木に覆われている。近くには近年まで見張り用の木造の建物が残っていたという。戦時中には巨大な照明を据えた「照光座」も近くにあったとの記録があるが、今は残っていない。
「電灯発電所」の現在の所有者の姉に当たる大間町の中嶋裕子さん(66)を野﨑さんに紹介してもらい、鍵を借りた。5年ほど開けていなかったため、1時間近くかかってようやく開いた。
通気口や井戸もあり、発電機が据えられていたと思われる跡も残っていたが、機材などはなかった。円形の台座と思われる部分にはボルトの穴跡があり、冷却水を流したとみられた溝も確認できた。
中嶋さんの祖父母は岩手県出身で、軍人として大間に来て、戦後も残って開墾したという。中嶋さんは「戦後、GHQの将校から『戦争に関係する施設なので爆破する』と言われたが、住宅も建て始めたし、周辺を開墾していることを、祖父が身ぶり手ぶりで伝えて許してもらった」と振り返った。
戦後間もなく払い下げを受け、祖父母が亡くなる前の昭和50年代まで、自然の冷蔵庫として使い、夏はスイカを冷やした。中嶋さんは「入ると広くて、子どもの頃は怖くて奥まで行けなかった」と振り返った。
小泉さんは「当時のまま残る外観に驚きを覚えるとともに、上部を林で覆うなど、海岸側から見えないよう工夫されていると感じた」と話した。
コンクリート製の残骸散在
第2章~大間要塞・折戸観測所(風間浦村)
青森市で積雪128センチを記録した2月20日、大間要塞のある大間町はゼロ。隣接する風間浦村の本州最北端の山・折戸山(標高119.1メートル)にも、うっすらと雪が積もっているだけだった。
山頂には、大間要塞の折戸観測所がある。昨年6月はクマ出没の危険性を考慮して断念したが、今回、小泉敦さんと観測所を目指した。
折戸神社奥の院付近から境内を抜けると急な坂が現れた。約15分、滑らないよう慎重に登っていくと、戦後80年を経てもしっかりと確認できるコンクリート製の半地下の観測所跡が現れた。
観測所跡の上に立った小泉さんは「眼下に大間の町が広がり、津軽海峡の向こうに函館や汐首(しおくび)岬、さらに龍飛崎までが見渡せる位置にあることが分かる。電波探信機(レーダー)によって敵の接近を察知して、報告していた施設ではないか」と語った。
幅1メートル余りの塹壕(ざんごう)が掘られた跡もあり、小泉さんは「この一帯が隣地と隔てられた拠点であったことを思わせる」とも話した。
折戸観測所跡に残る遺構
折戸観測所跡に残る遺構
要塞が撃っていたら町はめちゃくちゃに
第3章~大間町の元教育長・米澤明男さんに聞く
大間町の元町教育長・米澤明男さん(87)は1945年7月14、15日、8歳の時に空襲を経験した。「すぐに艦載機が帰ると思っていたら、機銃掃射を受けた。逃げ場がなく、防波堤の間に隠れた。怖かった」と振り返る。
同町では45年に入ると、空襲警報が鳴ると町内会ごとに設けられた防空壕(ごう)に隠れた。さらに危険が増し、夏休みには山の防空壕で生活した。夜は外に出ず、明かりが見えないように過ごした。
父親に連れられて浜にいた時、津軽海峡を飛んでいたグラマン艦載機から銃を撃ってきた。防空頭巾をかぶって、高い防波堤と低い防波堤の間を縮こまって、父親といとこと1時間ぐらい潜んでいた。艦載機がいなくなった後に初めて立ち上がった。「助かったと思った」
両日で大間に160機が襲来し、57発の爆弾が投下された。7人が亡くなり、建物36棟が全壊した。「弁天島の大間灯台が標的にされたが、要塞は松林に囲まれて攻撃されなかった。米軍は要塞を知らなかったのかもしれない」と米澤さん。「要塞から高射砲を1発も撃たなかったが、これで良かった。1発でも撃っていたら、反撃されて町はめちゃくちゃになって、死者ももっと出ただろう」と強調した。
大間要塞の配置要図(米澤さん提供)
大間要塞の配置要図(米澤さん提供)
大間要塞には戦時中、国防上、立ち入ることができなかったが、「戦後、兵舎は大間中学校となり、そこに入学した。要塞の面影があった」と語る。
米駐留軍が要塞を爆破。高射砲は真っ二つに切断され、大間港に運ばれ、鉄くずとして処理された。今、砲台跡に残っているのは高射砲の下の部分という。米澤さんが中学生の時には砲台の地下に階段で下りることができた。「地下に幅が1間(1.8メートル)ほどのコンクリートの長い廊下があった。資材を移動する際に使ったのではないか」
砲台の設計要図(米澤さん提供)
砲台の設計要図(米澤さん提供)
兵士と地域との交流もあった。「年1回、要塞の入り口にある草地で兵士と住民が参加する運動会があった」という。要塞の兵隊が地元の人と結婚して、住み着いた例も。北海道出身の柳森傳次郎氏(99年に81歳で死去)は78~82年と86~90年に町長を務めた。
忘れてはいけないのは1945年2月26日の68戸が焼失した大火。「火の粉が飛んできて、どんどん焼けていた。類焼を防がなければならない中、各家々は屋根に上がって、水をかけて自分の家を守るのに精いっぱいだった。その時、大間要塞の兵士が2階建てだった魚店をつぶして、延焼を防いだ。今の自衛隊による災害支援活動と一緒だと感じる」と話す。
戦争はどんな存在か、米澤さんに尋ねると「戦時中や戦後間もなくは皆が貧しい生活をした。貧しいが故に団結できたことがあったが、戦争で何も得ることはなかった」と返ってきた。

米潜水艦の爆発 兵士が確認
第4章~大湊警備府・桑畑防備衛所(風間浦村)
昨年4月と6月の2回、風間浦村桑畑地区の細くて曲がりくねった坂を小泉敦さんと車を走らせ、津軽海峡が見える高台まで上った。かつての大湊警備府桑畑防備衛所だ。周囲には畑が広がり、その一角に崩れたコンクリート製の土台や、空襲で民間に死者を出した責任を取って自害した楠毅盛少尉の慰霊碑などを確認できた。
土台の区画から、立派な兵舎が立っていたことが推測される。「ここまで上がってくるのも大変。艦載機が来たらよく見える場所だし、すごい音がしたのではないか」と小泉さん。「施設はかなりの大きさ。兵舎を兼ねた監視所の跡なのだろう」とみる。
桑畑防備衛所の水中聴音機は1944年11月7日昼過ぎ、津軽海峡東口の函館市恵山沖で米海軍潜水艦「アルバコア」が機雷に接触して爆発したのを感知し、兵士が黒煙が上がるのを目視で確認している。
多くの国内の軍事施設は終戦後、米進駐軍によって破壊されたが、桑畑防備衛所には進駐軍は来なかったという。
桑畑防備衛所だった建物の基礎部分
桑畑防備衛所だった建物の基礎部分
「兵隊さん」を歌や踊りでもてなし
第5章~風間浦村・八戸義之さんに聞く
風間浦村桑畑地区在住で地元の歴史について詳しい八戸義之さん(90)は「子どもの頃、防備衛所のすぐそばにある父のナシ畑に行くと、海軍の兵隊が出てきて、乾パンをくれた」と懐かしむ。海には海底ケーブルが入っていて、戦後に引き揚げたという。
建物が二つあり、一つは通信室で、いろんな機械が放置されていた。建物は戦後、校舎や村長住宅として利用された。
戦時中については「当時は兵隊がいっぱいいた。左側が幹部の部屋だった」と説明する。「大きな基礎の残っている場所はご飯を食べたり、寝たりするところだった」という。
易国間婦人会主催の海軍慰安演芸会のプログラム。桑畑防備衛所の兵士たちをもてなした(八戸さん提供)
易国間婦人会主催の海軍慰安演芸会のプログラム。桑畑防備衛所の兵士たちをもてなした(八戸さん提供)
地元の人たちと交流もあった。「彼らは『兵隊さん』と呼ばれ親しまれた。行事があれば、兵隊たちが高台の衛所から下りてきて、婦人会のメンバーと盆踊りして、一緒に踊ってにぎやかだった。歌や踊りでもてなす海軍の慰安会もあった」。地元出身者はおらず、全国各地から来ていたが、桑畑地区の女性と結婚した人もいたという。
八戸さんは「今の若い人たちはあまり関心がないようで、防備衛所の存在を知る人はほとんどいない」と話した。

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