第7話

空襲避難

戦時の象徴

三戸郡の防空壕

(三戸町、五戸町、南部町)

南部町の防空壕跡の内部

南部町の防空壕跡の内部

南部町の防空壕跡の内部

南部町の防空壕跡の内部

 戦時中、国民が空襲などから避難するために全国に設けられた防空壕(ごう)。

 当時を知る多くの人にとって、戦争を象徴する遺構として胸に刻まれている。

 三戸郡では戦後、食料の保存庫などとして活用され、戦後80年となった今も各地に防空壕の跡が点在している。五戸町に住む元県史編さん調査研究員の小泉敦さん(64)とともに、三戸、五戸、南部の3町の壕を訪ねた。

地理院地図

地理院地図

目立たぬように壁を黒く

第1章 三戸町①

 三戸町同心町に広がるブドウ畑脇の小高い丘の脇には防空壕が4カ所ほどある。昨年6月、所有する諏訪内観光ぶどう園の園主・諏訪内将光さん(72)とともに一番大きな防空壕跡の前に立った。

  壕の入り口は長年積もった土で半分がふさがれていた。戦後取り付けられた大きな扉から入ると、壁、天井にトタンが貼ってあり、外は暑い日だったが、涼しく感じられた。部屋は三つあり、かつては電気も通っていた。

  戦後生まれの諏訪内さんは「私が中学生の頃までは冬に沼の氷を持ってきて、のこくずをいれて保管したり、スイカや野菜を保存したりするために使っていた。戦時中の話は聞いたことはない」と語る。

 諏訪内家周辺の白い壁は戦時中、目立たないように炭で黒く塗られていたという。

空襲「ドドドドーンと

第1章 三戸町②

 三戸町同心町の防空壕跡付近に住む日戸(ひのと)義男さん(88)は戦時中、諏訪内将光さん宅近くの防空壕を掘った。「大人が7人ほど、子どもは5、6人が一緒に中に入って、ろうそくを立てて、つるはしで何日もかけて掘った。土は結構硬かった」と振り返る。

ろうそくを立てて、つるはしで何日もかけて防空壕を掘った思い出を語る日戸さん

ろうそくを立てて、つるはしで何日もかけて防空壕を掘った思い出を語る日戸さん

 「尻内(八戸市)に空襲があった際はドドドドーンと音がした。ここでは空襲がなかったけれど、空襲警報が鳴った際、木に隠れながら2度ほど逃げて入った。近所の人たちも逃げてきて、ぎゅうぎゅう詰めになった。1時間ほどだったが、恐ろしかった」

 神明さま(三戸大神宮)の近くにも防空壕を掘っていたが、途中で終戦を迎え、掘るのをやめたという。

 終戦の時は「ああ、負けたんだなとしか考えられなかった」。
 「同じ長屋に住んでいた人が看護婦から苦しまないで死ぬ薬をもらったという話を聞いたことがある。青酸カリのようなものだったのかな。殺されるのであれば、その前に死ぬということだったんだろう」
 戦時中、蔵に水をかけて放水訓練をしたり、女学生がなぎなたを練習していた記憶があるという。


 戦後80年の今、「戦時中は満足に食べることもできなかった。戦争は悲惨なもの。再び起こしてはいけない」と言葉に力を込めた。

「尻内駅に不発弾」(1945年7月16日付 東奥日報)

「尻内駅に不発弾」(1945年7月16日付 東奥日報)

1945年7月16日付 東奥日報

1945年7月16日付 東奥日報

稲作農家でも食料に苦労

第2章 五戸町

 昨年6月、五戸町から新郷村方面に向かう同町荷軽井(にがるい)地区の県道で車を走らせた。バス停近くの斜面に、かつての防空壕が見える。 入り口の高さは1㍍程度。壕の所有者で、近くに住む佐藤幸平さん(92)の許可を得て、中に入った。

 中はひんやりして、しゃがみながら進むと肥料袋が積まれていた。天井は炭のような黒い土が見え、奥の土砂は崩れていた。

 2、3年前まで食品などを保存する室(むろ)として使用。佐藤さんは「ナガイモを(凍結防止のために)室に入れた」と話す。 終戦の1年ぐらい前、佐藤家の使用人が空襲に備えるために掘ったが、防空壕としてはほとんど使わなかったという。「シラス(火砕流の堆積物)だから固くて崩れずに残ったのかな。今は当時を知る人でなければ、この穴が防空壕の跡とは思わないだろう」

 「この辺は戦時中、徴用で男の人たちは八戸や南郷に行っていた。米が政府に買い上げられ、稲作農家でも手元に残るのはわずか。食料に苦労した」。佐藤さんはしみじみと語った。

防空壕跡について説明する佐藤幸平さん

防空壕跡について説明する佐藤幸平さん

200人収容の壕 力合わせ掘った

 第3章 南部町

 今年1月下旬、南部町剣吉地区下斗賀集落の奥瀬博一さん(82)の自宅近くの山の斜面にある防空壕跡に、所有者の奥瀬さんに案内してもらい入った。

 トンネル状で、高さ約2メートル、奥行き約20メートル。コの字型になっており、かつては出入り口が2カ所あった。中は広く、岩盤は固いが、奥は崩落していた。「200人くらい入れるのでは」と奥瀬さん。中に、ろうそくを立てたとみられる小さな丸い穴も多く見つかった。
 奥瀬さんは「(1968年の)十勝沖地震では崩れなかったのに、地震の後、少しずつ崩れて、今は入り口が1カ所になってしまった」と話す。

 壕は妻・ふみ子さん(82)の父・奥瀬大三郎さんの代に掘ったという。奥瀬家は政治家の家系で、大三郎さんも戦後、旧名川町議を務めた。
 大三郎さんは住民にこの土地を提供。ふみ子さんは「住民が力を合わせ、つるはしや、ちょうなで穴を掘った。下斗賀の住民が防空壕としても使ったが、凍らないので、リンゴを保存したり、漬物を漬けたりして冷蔵庫代わりに使ったと聞いている」と話す。
 10年ほど前までリンゴの保存用に利用。電気も引いていたといい、さびたリンゴの選果台も残っていた。
 自宅裏には今も、奥瀬家の人たちが避難するために造った防空壕も残っている。
 奥瀬さんは別の集落出身。戦時中は幼児だったが、「防空頭巾をかぶり、姉におんぶしてもらって防空壕に入ったのを記憶している」と語った。

戦争の実相を考えるために

 終章 小泉さんに聞く

 小泉敦さんに防空壕の役割や遺構としての意義などについて聞いた。

 県内各地域で戦時中のことを尋ねると、「防空壕を掘った」「空襲の際に防空壕に入った」という話をよく聞く。戦時体験のある多くの人にとって、防空壕は戦時中の出来事が脳裏によみがえる遺構なのだろう。

人々の姿を記録し伝えることは、戦争の実装を考える上で大切だと語る小泉さん

人々の姿を記録し伝えることは、戦争の実装を考える上で大切だと語る小泉さん

 現在は崩落や戦後の埋め戻しにより、完全な形で残されているものは少ないが、一部は果物の保管庫や荷物の倉庫として今も残る。それが三戸、五戸、南部の3町に残る防空壕だ。


 国は戦時中、各家庭に簡単な竪穴式の壕を造ることを奨励した。青森や八戸市内に造られた個人用の防空壕は地面を掘って入り口を扉で覆ったような簡易なもの。空襲警報が発令され、戦闘機が接近すると、多くの人は防空壕に入ったという。


 国は地域あるいは各家庭用の防空壕を一時的に待避する場所と捉えていた。青森空襲では自宅の簡易な壕に逃げた人は火災に囲まれて、窒息死や焼死した人もあったと聞く。


 壕を掘った人や壕で恐怖の一夜を過ごした人たちの証言は戦争が至る所にあったことを思い起こさせる。私の母(92)も防空壕を掘った一人だ。地域に残る防空壕を通して、そこの人々の当時の姿を記録して伝えることは、戦争の実相を考えるために大切なことだと思う。

新郷村西越地区に残る防空壕の外観(小泉さん提供)

新郷村西越地区に残る防空壕の外観(小泉さん提供)

五戸町荷軽井地区に残る別の防空壕の外観

五戸町荷軽井地区に残る別の防空壕の外観

新郷村西越地区に残る防空壕の外観(小泉さん提供)

新郷村西越地区に残る防空壕の外観(小泉さん提供)

 ※青森県内の戦争遺構に関する情報をお寄せください。実存する遺構や、それに関する思い出などがありましたらメールアドレス(shakai@toonippo.co.jp)へ。

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