第5話
巨大銅山
まるで古代遺跡
上北鉱山
(七戸町)

太平洋戦争まっただ中、月産銅量1400㌧を超える日本一の銅山として軍需物資を供給し、「神風鉱山」と呼ばれた鉱山が七戸町(旧天間林村)にあった。「上北鉱山」だ。
安い海外資源の輸入や資源枯渇により、1973年に閉山。現在は坑廃水の中和処理を行っており、真新しい処理場がある。残っている旧鉱山の建物遺構は55年に拡大したという選鉱場(鉱物を選別する施設)のみだが、威容を誇る巨大な遺構が最大4千人超が生活した往時をしのばせる。
上北鉱山案内図(日本鉱業株式会社 上北鉱業所の事業所案内より)
上北鉱山案内図(日本鉱業株式会社 上北鉱業所の事業所案内より)
日本鉱業の事業要図
日本鉱業の事業要図


上北鉱山 大坪川上流の県道沿いにある七戸町南天間舘の旧鉱山。標高は約400㍍。1936年、所有者の三井栄一氏からの委託経営で日本鉱業が操業を開始した。40年、同社が単独経営で本格的操業。57年の事業所案内によると、当時、鉱山地区に住んでいたのは約3500人。現地には幼稚園、小学校(13学級)、中学校(6学級)、七戸高校の定時制分校があり、内科、外科、産婦人科、眼科、歯科診療を行う医院、8カ所の共同浴場、劇場、理髪店、美容院などがあった。日用品供給所は3カ所あり、食料から衣料品まで販売。郵便局、七戸署派出所があった。医院の医療費は従業員、家族とも無料だった。
選鉱場で処理した精鉱は青森の野内貯鉱舎まで約20㌔を空中ケーブルで運搬した。
71年に坑内採掘を休止、73年に奥の沢の露天掘りも休止し、閉山した。現在は現地で坑廃水処理が行われている。
軍需物資を供給、最大4千人超が生活
巨大銅山 まるで古代遺跡
~第1章




11月8日、前日夜に初雪を観測した青森市を車で出発し、ところどころ雪が残る八甲田の道を1時間半ほど走らせ、七戸町の旧上北鉱山に向かった。林間の砂利道をゆっくり進むと、かつての選鉱場が見えてきた。近くには、鉱害防止に向け、旧坑道から出る金属を含んだ水を消石灰で中和して無害化する施設がある。
本県の地域史に詳しい元中学校長の小泉敦さん(64)=五戸町=は現在残る選鉱場の跡を見るや「古代遺跡のようだ」と感嘆した。
あらかじめ連絡して、現地の事務所を訪ねたところ、JX金属エコマネジメント七戸事業所所長で、中和作業を担う公益財団法人資源環境センター上北事業所の所長でもある千葉剛彰さん(57)が迎えてくれた。
両事業所が入る建物には、採掘員たちが無事を祈った山神社がある。神社は上の沢にあったが、20年ほど前に移設した。
事業所では5人が勤務。千葉さんによると、夏場は車で通えるが、冬は雪が3㍍ほど積もり、県道が冬季閉鎖となるため、みちのく有料道路から雪上車に乗り換えて施設まで来るという。
千葉さんは「閉山後、建物は取り壊され、樹木の生えていない山となった。そこに植樹され、現在の姿になった。遺構好きや昔住んでいた人がたまに来る」と語った。
選鉱場は、1938年に造られたものが順次拡張され、53年に完成し、現在まで残っている。
事業所の許可を得て、旧上北鉱山選鉱場の周辺を歩いた。閉山から約半世紀。木が生い茂り、やぶの中を慎重に進むと目前に、巨大な遺構が次々と姿を現した。さらに30㍍ほど登っていくと、本坑の入り口が確認できた。
小泉さんは「朽ちて、木に覆われていたが、基礎部分の造りは堅強で、当時としては最高の強度を誇ったものと思われる」とみる。さらに「戦前から稼働している国内の鉱山の中でも選鉱場がはっきりとした形で残されている鉱山跡として貴重。断崖のような場所に当時のままの姿で崩壊せずに残っていることに驚いた」と語る。
かつて上北鉱山で生活した佐藤宏司さん(90)=千葉県船橋市=は本紙の電話取材に「戦時中に多く取れた銅の産出量が戦後になって減り、代わりに、肥料に使われる硫化鉄鉱が増産されるようになった。硫化鉄鉱は量で稼ぐ必要があり、採掘量が増え、選鉱場も拡大していった」と話した。
トウチャン ケガセズ ウントホレ
巨大鉱山 まるで古代遺跡
~第2章
戦時中の上北鉱山はどんな姿だったのか。当時の資料は少ないが、1943年8月の月刊東奥(東奥日報社発行)に「増産へ進撃する上北鉱山」のテーマで記者ルポが書かれている(一部を読みやすく編集)。
1943年8月の月刊東奥から「進撃する上北鉱山」
1943年8月の月刊東奥から「進撃する上北鉱山」
「ひな壇型に真新しい宿舎が美しく並んでいる。宿舎は狭いが、衛生完備した二間(部屋)を一家族に供与。5人以上の家族の場合は三間を与えている」
「(採掘員は)信心深い。入坑する前には山神社に詣でて無事故を祈念し、坑内入り口であらためて祈って職場につく」
「初めて坑内の戦士(採掘員)に接した。入る早々から心を強く打った『トウチャン ケガセズ ウントホレ』という標語を思い出した。坑内で見る標語ほど迫力のあるものはない。『坑道は征(い)かぬ我等(われら)の 突撃路』『盟友の 安全誓って 必勝勤労』『休めるか 一億増産 誰がする』…」
「ここでは爆薬により一時に数万㌧の鉱石を漏斗型にできている空洞に陥没させるブロックケービング法を採用していた」
「山奥には立派な一文化小都が形成されている。何か云(い)う場合の合言葉は『戦争に負けるぞ』。負けるぞとは勝たねばならぬからで、それだけ最も戦争を身近に感じている」
「娯楽は映写機2台備え付けられた集会所があり、月2回上映される。娯楽慰安の頂点は旧盆14、15日の山神社祭。この日は全山あげて神の下に集い、集会所では中央から特別招致された一流の芸人が昼夜ぶっ通しで熱演し、全山の強者たちは土俵上四股を踏み…」
「付属の病院があり、都会にいるのと何ら変わりがなく、無医村の農山村よりどれだけ安心しきっておられるか知れない」
戦時中の上北鉱山の状況は、45年1月の月刊東奥「東北地方鉱山局長に青森県の鉱山を聴く」でもうかがえる。語っているのは、畠中大輔氏。
45年1月の月刊東奥「東北地方鉱山局長に青森県の鉱山を聴く」
45年1月の月刊東奥「東北地方鉱山局長に青森県の鉱山を聴く」
「昨年上期において日本一の成績をあげ、軍需大臣から表彰された上北鉱山。独立軍需基地として底力を示してきた東北に、上北鉱山のごとき銅山があることは全く心強い」
「上北のもの(銅)など、その含有量、最も優秀な品質であり、この点だけでも国宝的存在じゃないか。昨年上期における重要鉱物増産期間において日本一の折り紙をつけられて表彰されたが、品質のいいものを大量に掘り出したことは戦力増強にいかに資するところが大であったかが想像つく。言うまでもなく銅は航空機生産の基礎資材である」




大勢の朝鮮人や米国捕虜が労働
巨大銅山 まるで古代遺跡
~終章
鉱山地区での暮らしぶりなどについて述懐する野村不二男さん
鉱山地区での暮らしぶりなどについて述懐する野村不二男さん
東北町大浦の野村不二男さん(88)は同町新山地区生まれで、小学3年から中学3年まで七戸町の上北鉱山地区で過ごし、戦中、戦後の鉱山の姿を見てきた。
戦時中は大勢の朝鮮人が上北鉱山地区にいて、兵隊に取られた日本人の男たちの労働力を補った。「若い男性が中心だったが、家族で来ている人たちもいた」。同学年の約60人のうち、3人が朝鮮人の子どもで、その子どもたちから「S型」と呼ばれる日本にはない遊びを教えてもらった記憶がある。「(普段は)日本語で話をした。差別、いじめはなく一緒に遊んだ」。終戦を迎えると、祖国へ帰っていった。
青森空襲の際には「逃げるためにみんな坑内にいた。鉱山からも焼けた明かりと、火の粉がしっかり見えた」。終戦時は「部屋で寝ていたら、大事な放送がある」と聞いて、待っていた。「天皇陛下の声を聞いたときは、子供心にも悲しかった」という。
上北鉱山付近には1945年6月、旧陸軍が196人を収容する「仙台俘虜(ふりょ)収容所第11分所」を開設していた。終戦から半月ほど過ぎた8月末の午前5時ごろ、飛行機3機が飛んできて「ドーン」という音がした。「また戦争が始まったかと思った」。飛行機は、米国人捕虜のための衣類や食料が入った箱を落としていった。沢などにも落ちて、付近の人が手伝い、お礼にチョコレートをもらった。その後、新しい背広を着た米国人の青年捕虜1人が、祖国に帰れる喜びを表すように、野村さんたちに大きく両手を振ってサヨナラをしたことを覚えている。
戦後、学校として使った建物は、かつて捕虜がいた宿舎だったとみられるという。
野村さん家族が住んでいたのはハーモニカ長屋という6世帯ほどが入った長屋で、部屋は8畳間と3畳間と押し入れしかなかった。「隣で話し声がすれば、しっかり聞こえた」と笑う。冬は長屋が雪で埋まってしまい、かまくらのよう。「外は寒かったが、部屋はそれほど寒いとは感じなかった」
小学校では5、6年生が冬支度のため、9~10月にまき運びをするのが行事の一つだった。
東北線乙供駅(東北町)から上北鉱山までの約30㌔区間、人や物資を運ぶため、線路を走るガソリンカーがあった。「エンジンがあって、30人は乗れた。以前は木炭車だった。2~3時間かかった」。冬は馬そりで上北鉱山と千曳(同)を1日1往復したが、5~6人しか乗れなかった。後に冬の輸送は雪上車となった。
ガソリンカーに関する記述(鉱山ゆかりの人たちによる文集「上北鉱山の想い出」から)
ガソリンカーに関する記述(鉱山ゆかりの人たちによる文集「上北鉱山の想い出」から)
野村さんは直近では2021年に現地を訪れている。「現地は木が育って面影はなかった」と話した。
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