序章
海峡を守った
秘密基地
小泊防備衛所
(中泊町)

真夏の日本海上空から、ドローンのカメラが、灯台の隣に眠る廃虚をとらえた。旧日本海軍の秘密基地だ。

津軽半島の先端に近い権現崎=中泊町小泊地区。
津軽海峡に侵入を図る敵国の潜水艦を警戒していた。日本海と太平洋を結ぶ要路は国防上の最重要エリアであったし、それは現在も変わりはしない。





朽ちた要塞(ようさい)の名称は大湊警備府小泊防備衛所。
太平洋戦争が始まる前年の1940年9月に設置された。
小泊地区の集落からは見えない地点にあり、戦争中は厳重な秘匿事項だった。
地元でその存在を知る人はほとんどいなかったという。
終戦から間もない45年11月6日、米軍が施設を爆破したが、コンクリート製の構造物は残った。51年になって、海上保安庁が隣接地に小泊岬北灯台を設置した。
2025年には終戦から80年となる。節目を前に、旅へ出ることにした。今も残る戦争遺構が何を物語るのか、各地を訪ねる。
防備衛所 旧日本海軍が重要港湾や海峡などに敵の潜水艦が侵入するのを阻止することを目的に、1940年ごろから全国に設置した陸上の拠点。長瀬崎(長崎県)、伊良湖(愛知県)など各地に置かれ、県内では小泊(現中泊町)と桑畑(風間浦村)、鉾崎(現外ケ浜町)、平舘(同)にあった。大湊警備府小泊防備衛所は、40年9月に設置された。戦時中、アメリカやソ連の潜水艦が津軽海峡に侵入しないように警備していた。戦時中はふもとに防備衛所の兵舎もあったが、49、50年ごろに解体され、小泊中学校の建設に使われた。
敵国の潜水艦を探知
海峡を守った秘密基地
~第1章
「全国に数多く残る戦争の痕跡の中でも、残存状況において特筆されるものでは。人里離れた立地だったからこそ、壊されずに残ったのだろう」
小泊防備衛所に足を踏み入れた小泉敦さん(64)=五戸町=は驚いた。元中学校長で本県の地域史に詳しい。
戦後79年。戦争を知る世代がずいぶん少なくなった。戦争を伝える主役は「ひと」から「もの」へ移ろうとしているが、だからこそ今、急がねばならない。戦時に造られた構造物が取り壊されたり朽ちていったりする前に、現地を訪ね、関係者から話を聞き、記録に残していこう─。
そんな思いで、小泉さんと取材班は、県内各地をめぐる企画に取り組むことにした。
小泊防備衛所は下見を兼ね、5月末に現地を目指した。まず中泊町小泊支所に立ち寄った。阿部弘喜支所長は地図を示しながら「地元の人も行かない場所。大変な道ですよ。マムシに気をつけて」。
海沿いをひたすら歩く。自然歩道は、途中から跡形もない。
岩の崩落を受けたのだろうか。
2時間ほどで、ようやく標高85メートルの丘の上に立った。
防備衛所はコンクリート製、3階建てのような構造だった。天井は低く、かび臭い。
1部屋はそれぞれ、学校の教室を少し小さくしたような広さだった。
窓を数える。入り口のある1階は四つ。2階には十。3階には六つ。日本海に突き出した丘から周囲の海を見渡せた。
30人が詰めて任務に当たったが地元の兵士はただ1人だったという。2015年に97歳で亡くなった元小泊村議会議長、磯野與三郎さんだ。
磯野さんはかつて、本紙取材に答えている。
「潜水艦が津軽海峡に侵入しないよう警備していた。もし侵入されでもしたら北海道と本州が遮断され、日本は孤立する。その意味で重要な所だった」(1994年8月11日付夕刊)
1994年8月11日付夕刊1面に掲載した記事
1994年8月11日付夕刊1面に掲載した記事
増幅器につながれたレシーバーを耳に当て、海に設置した聴音機から発せられる振動音をキャッチしていた。潜水艦が近づくと分かる仕組みだったという。
防備衛所には今も、磯野さんらが使用したであろう配電盤などが無造作に捨てられたままだった。兵士たちが強いられた緊張が伝わってきた。
この夕刊記事には、防備衛所に食糧などを船で運んだ地元の男性の証言もあった。軍との契約書には「建物内部のことは絶対他人に言ってはならない」などの条文があったという。
ほかにも取材を進めると、興味深いエピソードに突き当たった。
31年10月、三沢市淋代海岸から米国へ、太平洋無着陸横断飛行に成功したミス・ビードル号だ。
同年8月に日本へ飛来した際、北海道から津軽海峡、下北半島などの上空から撮影したフィルムに津軽要塞(ようさい)と呼ばれた軍事機密地帯が写っていたことから、ハーンドン、パングボーンの両飛行士が一時、都内のホテルに準拘束のような形での滞在を強いられていた。スパイ行為を疑われたのだ。
軍事施設が点在する津軽海峡や本県周辺は国防上、秘密のベールで覆われた一帯であったことを物語る出来事であった。
この9年後の40年、国際的な緊張が高まっていく中で小泊防備衛所が設置。翌41年12月8日、太平洋戦争に突入する。







今回の連載は、やはり終戦の8月に始めようと決めた。79回目の夏を迎えた姿を撮影しようと、取材班は再び権現崎を目指した。
濃く生い茂る雑草と厳しい暑さに、近づくことを拒まれた。丘に登ることは断念し、ドローンを飛ばすとカメラが廃虚と灯台を捉えた。青い海原に、一隻の漁船が白い航跡を延ばしていった。

権現崎の秘密を調査
海峡を守った秘密基地
~第2章
権現崎と小泊防備衛所をもっと詳しく知ろうと、「小泊の歴史を語る会」会長の柳澤良知さん(85)=中泊町小泊地区=を訪ねた。
柳澤さんは「権現崎は昔から航行の目印で、信仰の対象でもあった」と前置きし、津軽が生んだ作家・太宰治(1909-48年)に話を進めた。
太宰は44年に津軽地方を一周し、その年、小説「津軽」を刊行した。この旅では小泊も訪れており、育ての親タケと再会を果たす。一方で、小説では権現崎には詳しく触れていない。
柳澤さんは「国防上の重要な地として、触れてはいけない場所だったのだろう。戦時中、小泊を撮影した写真が、警察に没収されたという話も聞いている」と話す。
太宰の旅の4年前には既に、小泊防備衛所は設置されていた。旧日本海軍がこの場所を選んだ理由について、柳澤さんは「津軽海峡の入り口。海峡に入る前に敵の侵入を発見するという意味で、よい場所だったと思う」と推測する。
中泊町は2005年、旧小泊村と旧中里町が新設合併して発足した。柳澤さんはかつて小泊村史の編さんに当たり、防備衛所に駐在した磯野與三郎さん=故人=から聞き取り調査をしていた。「防備衛所の存在そのものが公になっていなかった。磯野さんから話を聞いて初めて(敵国の潜水艦などを警戒する)任務の内容が分かった」と振り返る。
「戦後、米軍は建物を再利用できるかもしれないと考えて、完全に壊さなかったのだろうか。平和の尊さを伝える意味で、保存や活用ができれば良かったのだろうが…」

戦争を知るきっかけに
海峡を守った秘密基地
~終章
小泊村史などをひもとくと、終戦が間近に迫っていた1945年7月15日午前6時過ぎ、米軍グラマン8機が来襲し、小泊国民学校を爆撃していた。
あっという間の出来事で教室が吹き飛んだが、日曜日のため子どもたちは不在で無事だった。
米軍機は再び攻撃をするため権現崎上空を旋回していたが、近くに停泊していた軍艦や小泊防備衛所から高射砲を受けたという。
学校周辺に不発弾が残る可能性もあり、防備衛所の兵士たちが出動して処理に当たった。多くの人たちが防空壕(ごう)や山林に避難した。
戦禍の記憶を、次の世代へどのように伝えていけばいいのだろうか。
そして現在においても、陸海空の自衛隊に加え、米軍施設が集中する本県は、沖縄県に次ぐ「基地県」である。津軽海峡は今も、国防上の最重要エリアの一つであることは変わらない。
長く教職に携わってきた小泉敦さんは語る。

「今も世界の各地で戦争が起きている。子どもたちや若い教員たちに、日本でもかつて多くの人が犠牲になった戦争が、ごく身近で行われていたことを考えてほしい」

そのきっかけになれば─と願いつつ、県内各地に残る戦争遺構を訪ねる旅を続けていく。
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